【短編小説】 「スマホを見ないと死んじゃう病」 長谷部恵子(5日目)
10月7日 午後8時
事件発生から108時間が経った。完治まであと60時間。
鏡の中の私の頬はこけ、瞼は腫れ上がっている。真っ赤な目の、化粧っけのない青白い顔が私を睨み返す。
そして、外面の酷さ以上に、私の精神は崩壊寸前の悲惨な状態にある。
今も「もう嫌だ!」と叫んでスマホを遠くに投げつけたい衝動に駆られている。
「つらい」「怖い」「眠い」「苦しい」
思考能力はもうほとんどないはずなのに、負の感情だけが滝のように心から溢れ出てくる。
でも、私はまだ生きようとあがき続けている。
頑張り続けられるのは、私の周りにいてくれる人たちのおかげだ。
「スマホを見ないと死んじゃう病」の対象者である私は、一昨日の夜からとある大きなホテルの一室で保護されている。
夫の孝之は有休を取って、あれからずっと一緒にいてくれる。
最愛の息子は、ホテル近くの義実家に泣く泣く預けた。
そして、私の隣にはボランティアスタッフが 24時間体制でいつも付き添ってくれる。
20代から30代までの体力のある6人の女性スタッフが、シフトを組んで私の身の回りのことをしてくれている。彼女らは、スマホの管理をしながら、1分ルールや30分ルールに目を光らせている。
トイレの時だって側にいる。最初は抵抗があったけど、今はただありがたいと思うだけだ。
ホテルには、3人の医師と10人ほどの看護師が常駐していて、常に対象者の健康管理を行っている。彼らは頻繁に巡回をし、私の健康状態と精神状態をチェックしてくれる。
今朝、私は心身ともに最悪の状態に陥ってしまったけれど、何かの注射を打たれて割とすぐに回復することができた。
食事は、お弁当が朝昼晩と三食用意されているけど、それを完食している対象者は誰もいないと思う。
私は、そもそも食欲が全くないので、果物や栄養補助食品で済ますことが多い。
第一、食べ過ぎは眠気につながるのでとても怖い。
ホテルスタッフの中には、スマホの故障に備えた技術者もいるそうだ。
でも、1分ルールの時間内に故障したら直す暇などないと思う。
ルールをクリアするために、自分以外のスマホを見ても良いのなら少しは安心できるけど、さすがに、命がけでその検証をする者なんていないだろう。
このホテルには30名ほどの対象者が保護されているようだ。
ここにはかなりの部屋があるはずだけど、スタッフや関係者、対象者の家族などの部屋も確保し、余裕を持った部屋割りにするにはこれが限界みたいだ。
おととい、政府が非常事態宣言を発令し、対象者の保護を開始した。
でも、準備をする時間が全然足りなかったようで、今日になってやっと保護された人もいるらしい。私はラッキーなことに、その日の深夜にホテルに入ることができた。
家にいたときは、夫が必死に私の様子をチェックしてくれて、1分ルールや30分ルールに対応してきたけれど、やはり二人だけで立ち向かうには限界があった。私だけではなく、夫までが倒れる寸前で、義両親や友達にSOSを出そうとした矢先のことだったので、本当に助かった。
おとといの政府発表で、「スマホを見ないと死んじゃう病」の対象者が661名もいて、死亡者がもう200名を超えたと知った。
私と同じ境遇の対象者が、3日目にして早くも1/3近く亡くなっていることに衝撃を受けた。このままだと自分もその数字にカウントされるんだろうなと諦めにも似た気持ちになった。
それ以降、死亡者の追加発表はない。
これは死亡者が発生していないのではなく、ただ発表していないだけだと思う。
現に、このホテルでも何度もバタバタと慌ただしい雰囲気になり、館内放送で自室から出ることを禁じられたことがあった。運動代わりにスタッフと一緒にロビーを散歩していた時に、強制的に自室に戻らせられたこともあった。
他の対象者にショックを与えないための配慮かもしれないが、誰かが泣き叫ぶ声が幽かに聞こえてきて、あぁ、また誰かが逝ったんだなって分かった。
それだけじゃない。時間が経つにつれ、誰かが暴れる激しい音や激高して叫んでいるような声がよく聞こえるようになってきた。睡眠不足が続く上に、死への恐怖というとんでもないストレスまで溜め込んだ人間がそうなるのはよく分かる。私だって、保護されてからヒステリーを起こして自己嫌悪に陥ったことが何度もある。
対象者がこの状況に疲れ切って自殺を実行するのは簡単だ。1分間じっと目を閉じてさえいれば自殺を完遂できる。1週間を乗り切るためにこんな地獄の苦しみを味わっているというのに、死ぬのはなんと簡単なことか。
今朝の地方紙で、笹塚という記者がレポートしていたけど、多くの対象者が苦しみから逃げ出すために自らの死を選んでいるそうだ。私の中には、それを心から理解できる自分と「スマホを見ないと死んじゃう病」の狡猾な罠に引っ掛かってたまるかと思う自分の二人がいる。
そんな私に、夫とボランティアスタッフは献身的に寄り添ってくれる。
夫は前よりも仮眠を多く取ることができるようになったので、今まで以上に親身に寄り添ってくれる。
スタッフの愛ちゃんは聞き上手で、私の気力が尽きないよう、いろんな話題を振ってくる。
朋絵さんは、世界中を旅してきた経験から、私の知らない興味深い話を教えくれる。
香菜ちゃんは、自分の休息時間にホテルの近くにある夫の実家に行って、息子の動画を撮ってきてくれた。そしてそのデータを私のスマホに入れて、これならスマホから目を離せなくなるでしょ?って得意げに笑う。
裕奈さんも多恵さんも美紀ちゃんもみんな頼りになるスタッフだ。ニコニコしながらも、自暴自棄になりそうな私を厳しく律してくれる。
私にとって一番の敵はやはり「眠気」だ。寝過ごすことが死に直結する。
スタッフ達もいろいろと考えてくれる。
室温を少し肌寒いくらい低めに設定したり、椅子とベッドをわざと堅めのものにしたり、ブドウ糖を適度に摂取したり、軽いストレッチや運動をしたり、冷たい水を飲んでみたり、眠気を覚ますツボを押してみたり、ありとあらゆる方法を試している。
スマホの見方も変わった。
家に居たときは、ずっとスマホから目を離さないようにしていて、かなりきつかった。
今は、数十秒に1回チラッとスマホの画面を見る程度にしていて、その動きはもう癖のようになっている。
ただ、ボーっとしていたり強烈な眠気に襲われたりすることも多くて、その度にスタッフや夫から助けられている。
正直なところ、頭の中は常に靄がかかっているような状態で、みんなの話も頭の中で上滑りをしてしまうこともある。
けれど、私を全力で助けようと思ってくれるその気持ちがただただありがたい。
そんな気持ちを無にしてはいけないと強く思う。
私は生きねばならない。
同じ対象者である「突撃Boys」というキューチューバーが大人気らしいけど、自分の命を売り物にして人気を得ようとする彼らの気持ちがこれっぽちも理解できない。
私は、自分の命を繋いでいくことに全身全霊の力を尽くす。
義実家に預けている最愛の息子には、敢えて会わないようにしている。
会った瞬間に、心が折れてしまいそうな気がするからだ。
1週間をなんとしてでも生き抜いて、この手で思いっきり息子を抱きしめたい。
それから、息子と一緒にふかふかのベッドにもぐり込み、朝までぐっすり眠りたい。
それだけを夢見て、今を必死に生きている。
(続く)
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