【東日本大震災】何でもないような事が幸せだったと思う(「#もしもの備え」受賞作品)
今日で東日本大震災が発生してから13年目になる。
この日から、僕の頭の中ではある歌の切れ端がリフレインされることになった。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
THE 虎舞竜の「ロード~第二章」の一節だ。
長い歌詞の中で覚えているのはこの部分だけだ。
13年前、14時46分、僕らには大自然の脅威に立ち向かう術(すべ)はなかった。
僕は、仙台市の中心部で働いていたので津波の被害に遭うことはなかったけれど、ラジオのアナウンサーが引き攣った声で「荒浜の海岸に200から300の遺体が打ち上げられている」と速報を伝えた時、事の重大さに絶句した。
家族と連絡が取れずにヤキモキしながら、職場内の点検をして、情報を集め、とりあえず職員を帰らせ、職場を出たのが20時。
公共交通機関は当然動いていなかったので、とりあえず自宅に向かって6㎞の道のりを歩き出した。
仙台市内は大渋滞で、ビルの明かりも全て消えて真っ暗な中、道路だけがヘッドライトの光で溢れていた。まるで光の川が静かに流れているようだった。裏道に入っていくと、そこは漆黒の闇が広がっていて、光がないことがこんなにも心細いということを思い知らされた。
1時間半ほど歩いて家の前まで来ると、10㎞以上離れた海の方向の空が不気味なピンク色に染まっているのが見えた。仙台港のコンビナートが炎上していたのだ。闇の中のたった一つの明かりが、この禍々しいピンク色だった。
この日から、何度も繰り返される大きな余震に怯えながら、食べ物も水も電気もガスもない生活が始まった。家は半壊で済んだが、部屋の中はぐちゃぐちゃで寝るところなんてなかった。両親、妻、子ども二人、そして僕の6人が車2台に分かれて寝泊まりする日が続いた。
一週間ほどの間に、叔父夫婦が、悪友が、仕事で関りのあった方が、亡くなったとの連絡を受けた。
なに不自由なく普通に暮らしていた日々がひたすら懐かしかった。
あの時、僕らは特別な幸せなんて誰も望んじゃいなかった。普通の暮らしを普通に送れることだけがたった一つの望みだった。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
蛇口をひねれば水が出る。スイッチを入れれば明かりが点く。コンビニに行けば何でも買える。電車が時刻どおりに走っている。好きなものを好きなだけ食べられる。安心して眠れる場所がある。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
人の好い叔父夫婦がたまにやってきてお茶飲み話をする。高校からの悪友と居酒屋で酔っ払って愚痴をこぼしあう。互いに腹の内を探りあいながら、仕事の落としどころを決める。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
不自由な生活を強いられる度に、同じフレーズが頭の中でリフレインされた。
いつの間にか口ずさむようにもなっていた。
同じフレーズを木偶のように何度も何度も口ずさんでいた。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
時が経ち、次第に生活も落ち着いていき、このフレーズを口ずさむこともなくなっていった。
普通の生活を普通に送れるようになっていったからだ。
でも、それでもこのフレーズが頭の中でリフレインされることがある。
妻が脳出血で倒れた時
親父が長い闘病生活のあと亡くなった時
自分が病気で入院した時
コロナ禍の時
「何でもないような事が幸せだったと思う」
そして、普通の生活を送れるありがたさを忘れかけた時、僕は敢えてこのフレーズを口ずさむ。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
今の状態が幸せであることを忘れるな。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
いつまでも、この幸せな生活が続くと思うな。
「何でもないような事が幸せだったと思う」
今のうちに、やりたいことを、できることをやっておけ。
能登半島地震で被災したみなさん。
お辛いかと思いますが、いつか必ず普通の生活を送れる日が来ます。
それまで元気でお暮しください。