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【短編小説】注釈男 世界は踊る 第5話


【第5話】

 注釈が最後の形になってから突然消えるまでの3週間。
 その期間は、不倫を一度でもしたことがある者がどんなに遠く雲隠れしようと、写真1枚あれば誰でもその不倫の顛末を知ることができた。それは法的証拠にはならないけれど、誰もが真実だと分かっていた。そして、それはその者に社会的な制裁を加える十分過ぎる根拠となった。

 ちまたでは、ここぞとばかりに自分の敵対する者の注釈を探り、それを道具として使う者があふれかえった。注釈はあらゆることに利用され、世界を混乱の渦に叩き込んだ。

 実際のところ、注釈の朝以来、あらゆるマスコミや組織、国までが注釈の情報を血眼になって収集しており、有名無名を問わず、その膨大なデータが蓄積されていった。
 特に、どこの国でも始まっている個人番号制度の情報には本人の写真データが含まれていることから、3週間の間、国はほぼ全国民の注釈の情報を入手可能な状態となった。
 やがてその情報群は世界的なハッカー集団の手によってハッキングされ、そして一元化された。それは秘密裏に「注釈男データベース」として完成することになる。

 注釈という新たな規範により、世界は激しく踊った。
 自業自得だとは言え、世界中で多くの者が社会から排除され、多くの家庭と組織と秩序が崩壊し、多くの者が殺され、そして多くの者が自ら命を絶った。
 3週間という時間ははたして長かったのか短かったのか。

 注釈が消えた日、日本のネット上では蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。僕の書き込みは当初黙殺されたけれど、実際に注釈が消えた後で、大々的な注釈男探しが始まった。有象無象のネット民だけではなく、国家レベルでの捜査が密かに行われたという噂も乱れ飛んでいた。しかし、その噂はあながち間違いではないと思う。もし、自由に注釈を付けられる能力があるとすれば、使い様によっては非常に危険な兵器になりうる。それはこの2か月間の惨劇が証明している。誰もがその能力を手に入れたいと思うのは当然だろう。

 ネット情報によると、不思議なことに僕の書き込みは、過去の分も含めてIPアドレスをはじめとした全ての情報が抜け落ちていたそうだ。これでは書き込んだ者を追跡しようとしても手がかりはない。言わば、ネット上に言葉だけが漂っている状態だ。

 結局、注釈男が誰なのか分からないまま事態は収束するかに見えたが、日本の注釈男の噂は瞬く間に世界中を駆け巡り、都市伝説化していった。注釈によって全てを失った人々は注釈男を逆恨みして死ぬ程憎悪する一方で、大勢の人々が、隠された悪事を白日の下に晒したヒーローの復活を熱望した。注釈男を神とみなして世界の浄化を願う狂信的な集団が次々に生まれ、そして次第に「注釈男の意志」という名のカルト集団に集約されていった。そしてたちまちカルトという括りでは収まらないほどの広がりを見せ始めていた。常識では考えられない現象を現実として見せつけられた人々は気付いてしまったのだ。嘘と欺瞞で塗り固められたこの世界が、ペンでも剣でもなく、注釈たったひとつで簡単にひっくり返ることを。

 でも、当の本人の僕は、そんな世界と一緒にダンスを踊るつもりはさらさらなかった。踊るなら勝手に踊れ。注釈男の能力はあくまでも僕自身の欲望を満たすためだけのものだ。世界のことなんかどうでもいい。


 注釈が忽然と消え去ってから半年が過ぎた。

 僕の会社でも、長らく休んでいた人々の半数ほどが何事もなかったように仕事に復帰していた。
 みんなの妹的存在だった女子社員は、残念ながら職場に戻ってくることはなかった。
 鈴木部長はいつの間にか会社に復帰し、僕らに顔を見せることもなくすぐに地方支店に異動していった。
 僕はと言えば、なぜか史料編纂室から営業部への復帰を突然命じられ、死んだ心のまま淡々と営業を続けている。僕の復帰に当たっては、鈴木部長が裏から手を回したとも聞いたがよくわからない。単なる人員不足を埋めるためなのか、それとも、罪滅ぼしのつもりだったのか。
 でも、そもそも僕にはもう部長に個人的な制裁を加えようとするほどの気力はこれっぽっちも残っていない。
 自分の不倫相手を部下に紹介することは道義的に問題はあるが、法的には裁くことはできない。僕が単なる間抜けだっただけだ。

 注釈男の看板を自ら下ろしたあの日から、僕はただただ細々と生きる腑抜けた人間になってしまったのだ。

 悠里とはあの時以来全く会っていない。連絡も取っていない。
 注釈が消えてしまった今、悠里の写真を見ても、その屈託のない笑顔は何も語らない。悠里がいま何を考えているのか、どこにいるのか、実家に戻ったのか、あの男とまだ不倫関係を続けているのか、何をしているのか、千帆はどうなったのか、全てのことに関心がない。あれだけ悠里に対して抱いていた怒りはとっくにどこかにいってしまった。あんなに愛していた千帆だったのに今では思い出すこともほとんどない。

 今、僕の目に映っているのは全て虚無だ。
 離婚の手続きもほったらかしにしたまま、僕は毎日を無意味に生きている。


 そんなある日、歩道の水溜まりにうっすら氷が張ったとても寒い朝、突然悠里から電話があった。

(続く)


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