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【短編小説】 「スマホを見ないと死んじゃう病」 長谷部恵子(2日目)

 10月4日  午前10時
 事件発生から26時間が経った。

    長谷部恵子は、リビングのソファーに浅く腰掛け、真っ赤に充血した目でぼんやりとスマホを見つめている。
    光量を落とした画面には、味気ないメールの画面を映しているが、その文面を読んでいるわけではない。

    恵子の頭の中はずっと薄霧がかかったようにぼうっとしていて、集中力はとうに消え失せている。
    時々、フッと意識が飛びそうになるが、その度に、隣で恵子の肩を抱いてる夫の孝之が、
「恵子!頑張れ!スマホを見ろ!」と軽く肩を叩く。
    夫の献身さに涙が出るほど感謝しながら、恵子は考える。
    このまま1週間も耐えるなんて無理だ。いずれ私は死んでしまう。
    どうしてこんなことになってしまったのか。

 

    私は昨日、超満員の地下鉄の中で保育園のお迎え時間の天気が気になってスマホを見ていた。すると、突然つんざくようなハウリング音が車内に響き渡り、耳慣れない車内放送が流れ始めた。
 
    「対象者…1分以上スマートフォンを見ない…死亡…特例措置…」

    私は、どうせまた何かの公報だろうと思い、それを聞き流しながら再び夕方の天気のチェックを続けた。

    すると唐突に、隣に立っていたリクルートスーツ姿の女の子がぐったりともたれかかってきた。
    その顔色は蒼白で、四肢の力が完全に抜けているのが分かった。女の子の手からスマホがすべり落ちて、電車の床にゴトンと落ちた。

   私は突然のことに動揺したものの、なんとか女の子の身体を支えようとした瞬間、後ろにいた若いサラリーマンが叫んだ。
    「死んだぞ!本当に死んだぞ!対象者が死んだぞ!」
    その叫び声をきっかけに車内は騒然となった。その女の子の周りだけではなく、車内のあちこちから悲鳴や叫び声が聞こえてきた。

    「スマホから目を離すな!死ぬぞ!」
    ドアのそばに立っていた初老の男の叫び声で、状況をよく理解できないまま私も慌てて視線をスマホの画面に戻した。

    車内は身動きも取れないほど混んでいたのに、パニック状態になった無秩序な人の流れは渦となって私を押しつぶそうとした。スマホを落とさないように必死に身を守っていると、車内放送が淡々と多々良目駅への到着を告げドアが開くと同時に、私は他の乗客と一緒にホームに吐き出された。

    非常ベルが甲高く鳴り続けるホームは、我先に逃げ出そうとする人々で大混乱に陥っていた。ただ、対象者とされた人々はほとんどがホームにとどまって、立ち尽くしたり地面に座り込んだりしながら一様に青褪めた表情でスマホの画面を見つめていた。
    私もただただスマホの画面をぼんやり眺めていたけれど、目の端でホームに人が点々と倒れているのを捉え、死への恐怖が現実として迫ってきた。

    混乱が続く中、外に逃げ出そうとする群衆をかき分けるようにして、物々しい防護服に身を固めた大勢の警察官と救急隊員がホームに雪崩れ込んできた。最初から化学テロを疑っていたらしい警察は、到着早々、乗客を電車から遠ざけるために、地上への誘導を開始した。

    私達はスマホを見ながらのろのろと移動し始めたけれど、「スマホを見ていないで早く上がれ!」と警官に怒鳴られたことで、対象者たちの怒りが爆発し、一斉に警官に詰め寄った。
    「俺たちはスマホを見ていないと死んじまうんだ!」「早く病気を治してくれ!」「なんでこんなことになったのか説明しろ!」「交通局の責任者を早く逮捕しろ!」
    詰め寄られた警官は、対象者から口々に意味不明な話を喚き散らされ、困惑した顔で固まっていた。

 そのあとの記憶は曖昧だ。
 警官と対象者たちのやり取りを聞いて、スマホの画面を1分以上見ないと死んでしまうことだけは理解した私は、スマホの画面を見続けながら、言われるがままに移動し、待たされ、連絡先を聞かれ、アナタモ スマホヲツカッテイタノデスカと聞かれ、2時間後に解放された。

    私はそこで初めて、夫と連絡を取るという最も大事なことを忘れていたことに気付いた。
    その時点で、前日に充電し忘れていたスマホの電池の残量はもう20%を切っていた。さらに最悪なことに、いつも携帯しているモバイルバッテリーも家に忘れてきてしまっていた。
    私は泣きながら、画面から目を離さないためにスピーカーモードにして在宅勤務中の夫に電話をかけた。
「多々良目駅まですぐに迎えに来て!モバイルバッテリーを絶対に持ってきて!早く来ないと私は死んじゃう!早く!早く!」
「どうした!?何があった?」
    普段からテレビを観ない夫はまだこの事件を知らなかったのだろう。
「お願い!早く来て!早く!」
    私は説明できるだけの情報は持っていなかったし、なにより電池の減りを恐れて早々に電話を切った。

    今から思えば、どこかの電気店かコンビニで充電器を買えば済んだ話なのに、気が動転していた私は、愚かなことに夫に充電器を持ってきてもらうことだけが、私が死なない唯一の方法だと思い込んでいた。
    普段なら自宅から多々良目駅まで車で25分程度だけれど、この日は事件の影響で道路が大渋滞となっていたのか、夫と会うことができたのは電話をしてから1時間半後のことだった。
    私のスマホの電池残量はその時4%まで減っていて、夫が駆けつけてくる直前まで本気で死を覚悟したし、夫が来るのがもっと遅れていたらそのまま無意味に死んでいたと思う。

    車の中で、夫から何が起きたのか訊かれたけれど、私は事件のことをうまく説明できなかった。ただ「スマホを1分以上見ないと私は死ぬらしい。」ということだけはなんとか夫に伝えることができた。
    夫は、スマートフォンから目を離すことなく泣きわめく私を見て、精神的におかしくなってしまったと思ったようだけれど、カーラジオから流れてくる緊迫した断片的な情報や私の必死さに何かを感じとったのかそれを信じてくれた。

    家に戻った頃には、乗客の証言などによって「スマホを見ないと死んじゃう病」の衝撃的なニュースが日本中を駆け巡っていた。ニュースでは、誰かが録画した車内の様子が流されていて、車内放送もあらためて全部聴くことができた。
    そのあまりにも過酷な生存条件を知って、一週間も耐えられないと泣き叫んで絶望した私を、夫は絶対に死なせないと強く抱きしめてくれた。それから夫は、24時間私につきっきりで「スマホを見ないと死んじゃう病」から守ろうとしてくれている。
    死と隣り合わせのこんな状態では、仕事も家事も育児も何もできやしない。夫に頼んで私の会社に長期休暇を取ることを伝えてもらい、息子は無理を言って夫の実家に預かってもらうことにした。

    正直なところ、いまだにこれが現実だとは思えない。思いたくもない。スマホを1分間無視してみても案外なんともないのかも、なんて考えもふっと頭をよぎる。でも、続報として次々に入ってくる対象者死亡のニュースが私を現実に引きずり戻す。

    昨夜は結局、仮眠を全く取れなかった。夜間の特例措置時間に少しでも睡眠を取らないと昼間がきつくなるのは分かっている。30分以内に必ず起こすから寝なさいと夫に言われたけど、寝たまま死んでしまうかもと考えると怖くて寝ることができなかった。

    日中の1分間ルールは地獄だ。
    ずっとスマホの画面を見続けるのは苦痛だ。できるだけスマホから目を逸らしていたいけど、1分間はあっと言う間に過ぎ去ってしまう。ウトウトしたらすぐに死に直結してしまう。だから怖くてずっと見たくもないスマホの画面を見ている。
    1分間は、スマホから目を離している分にはあっと言う間に過ぎ去ってしまうけれど、じっとスマホを見ている分には途轍もなく長く感じる。ましてや1日は無限に続くかのように長い。
    だんだん時間の感覚がぐにゃぐにゃに歪んできているような気がする。
    まだあれから1日しか経っていないのに、頭は朦朧としていて、目の奥が重苦しく痛い。
    夫だって昨夜は私のことを心配して一睡もしていないはずだ。すぐに夫のサポートにも限界がくるだろう。
    こんな状況では1週間も耐えられるはずがない。

    でも…

    電車でたかだか2~3分スマホを見ただけで死ななければならないなんてまったく意味がわからない。
    こんなくだらないことで永遠に夫や息子と会えなくなるなんて馬鹿げている。
    誰が何の権利で私の命を奪おうとしている?
    死ななければならないほどの事を私はしたの?

    そう考えると無性に腹が立ってきた。
    もうとっくに雲散霧消したはずの気力が再びムクムクと沸き上がってくる。

    私は死なない。1週間後も1ヶ月後も1年後も10年後も夫と息子と暮らしていく。
    私はソファーから立ち上がり、絶叫する。

私は絶対死なない!
死んでも生き抜いてやる!

(続く)


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