古典を読むことについて
大学時代の恩師は、古き良き時代の大学教授というイメージそのままの人物で、研究室には壁一面の本棚に天井まで本がびっしりと並べられており、そこからはみ出た本やら資料やらが足の踏み場もないほどに積み上げられているという状態であった。
「すぐに役に立つ知識というものは、すぐに陳腐化するものである」というのが口癖で、我々のような学部学生には、既に評価が確立した古典的な書物(にもかかわらず翻訳が出ていない英語の原書)に取り組ませ、それこそ眼光紙背に徹すというくらいに徹底的な指導を受けた。
残念なことに、それくらいに厳しく指導してもらった内容に関しては、概略くらいしか覚えていない。それでも、日本語で書いてあっても難解な内容の書物に英語の原書で取り組まされた経験があるので、普通の英語であれば、自分でも原文で読めるんじゃないかという根拠のない自信のようなものは身についたし、実際、銀行時代に英語を大量に読まないとどうしようもない案件を何度か手がけたが、音を上げずに何とかやり遂げることができたのも、学生時代の経験があったお陰であろう。
話がそれた。英語の原書を読んだ体験ではなくて、中身の話を書く予定であった。
僕が学生時代に読まされた古典と同じ分野の書籍や論文は、それから後にも数えきれないくらいに発表されている。その中には後世に残る価値のあるものもいくつかはあるのだろうが、大部分は数年も経たないうちに忘れ去られている。一方、僕が学生時代に読まされた書物に関しては、今でも同じ分野のパイオニア的文献ということで読み継がれてもいるし、我々が大学を卒業する頃にとうとう翻訳まで出版された。翻訳本が出るのがもう少し早ければ、あんなに苦労して訳読しなくても済んだのにと、ゼミ仲間と愚痴を言った記憶がある。
古典と呼ばれるものは、(どんな分野であれ)最初から古典だったわけではない。時間というシビアなフィルターをくぐり抜け、生き残った結果、古典となったと考えられる。シェイクスピアやドストエフスキーも、ベートーヴェンやモーツァルトも同様であろう。
逆に言えば、古典を読むという行為は、すごくコスパが良いということになる。昨今のベストセラー書はいわば玉石混交であり、中身のない、屑のような本を読まされる可能性も相応に高い。かなりの割合で「はずれ」もあるということだ。一方で、何百年とか何千年とかのサバイバルゲームを勝ち残った古典というのは、すべてが殿堂入りしたチャンピオンであり、それぞれ一騎当千の価値がある。
中身に価値があるという話だけではない。読んで面白くて、何度も読み返すに足るという点でも古典はコスパが良い。そうでなければ、どこかで風化して忘れ去られたはずである。
そういうわけで、既存の古典は、いわば先人に選び抜いてもらった成果であり他力本願的ということになるが、「自分で古典をつくる」というスタンスも重要である。渡部昇一の『知的生活の方法』にもあるが、気に入った本を繰り返し繰り返し読むことで、自分なりの趣味が形成され、自分なりの古典が形成される。渡部の場合、そうやって幾多の「捕物帳」小説の中から岡本綺堂の『半七捕物帳』が繰り返し読むに足る自分なりの古典として生き残ったエピソードを紹介している。
僕にとっては、さしずめ、池波正太郎の『鬼平犯科帳』『剣客商売』各シリーズといったところであろうか。これらは何回読み返したかわからないが、何度読んでも新鮮であり面白い。一方、若い頃に愛読していた本であっても、だんだんと色褪せてしまって、大して面白いとは感じられなくなったり、なんか浅いなと思うような本もある。
固有名詞を書くべきかどうか迷ったが、司馬遼太郎の作品の多くは、(あくまで僕個人としては)そういうカテゴリーに分類されてしまう。