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米大統領について

日本において、岸田首相の支持率が低迷しているにもかかわらず、国民の政治的無関心が続くのは、野党が不甲斐ないからである。

野党が与党にいつでも取って代われる能力があるならば、与党ではダメだとなれば、政権交代を待望する方向に世論は盛り上がるのだろう。

そうならないのは、野党に任せるとロクなことがないという、トラウマ級の体験があるからである。

思えば、日本で大規模自然災害が起きる時、どういうわけだか野党党首が首相を務めている。

95年の阪神淡路大震災の時は、自民、社会、新党さきがけの連立内閣が政権を担当し、社会党委員長の村山富市が首相の座にあった。

11年の東日本大震災の時は、民主党の菅直人が首相であったのは記憶に新しい。

どちらも有事の際の対応のポンコツぶりで大きな失点を犯し、国民の支持は地に堕ちた。結局のところ、自民党もひどいものだが、野党に比べればまだマシだというのが、国民の共通認識になったという感じがする。

サッカーで言えば、野党の数多くのオウンゴールに助けられて、与党である自民党はこれだけ支持率が低くても、なんとか政権を維持できているのだろう。

野党はそういう自覚があるのだろうか。

米国の大統領選挙についても、認知症気味の高齢者と、反社的な人物との一騎打ちのような雰囲気になっている。民主党支持者にしても、共和党支持者にしても、他にもう少しマシな候補者はいないのかよと思っているに違いない。

テレビでの論戦にも耐えられない高齢者も困ったものであるが、それでも遵法意識皆無の犯罪者よりはマシであろう。

<トランプ氏は23年8月、21年の連邦議会占拠事件を巡り大統領選の結果を覆そうとしたほか、結果を確定させる議会手続きを妨害したなどとして、4つの罪で連邦大陪審に起訴された。
トランプ氏は起訴の対象となった行為は大統領としての公務の範囲内で、刑事訴追から「完全な免責」が認められるべきだと主張して起訴の却下を求めた。
首都ワシントンの連邦地裁と連邦控訴裁はトランプ氏の免責を認めない判決を下しており、トランプ氏側が最高裁に上訴していた。>

これに対する米連邦最高裁の判断が出た。
<米連邦最高裁は1日、共和党のトランプ前大統領が2020年の大統領選で敗北した結果を覆そうとした罪で起訴された裁判を巡り、在任中の公務に関わる行為には免責を認める判断を下した。大統領の免責特権について刑事事件で判断が示されたのは初めて。民主党などからは大統領の権限が法律で制約されなくなるとの批判が上がっている。>

まあ、早い話が、現職の大統領というのは、超法規的な存在だということを、連邦最高裁が認めたような話である。

王権神授説に基づく、絶対王政においては、国王の地位は、神から与えられた絶対不可侵なものであり、したがって憲法や法律で拘束されることはない。

一方、近代以降の立憲君主主義においては、たとえ国王といえども、憲法に従わなければならない。英国王の「君臨すれど統治せず」とは、そうやって、長い時間をかけて、王権に制約を課した結果であると言える。

にもかかわらずである。在任期間中の大統領ならば何をやっても構わないということになると、まるで絶対君主のような法をも超越した存在になってしまう。それは、ちょっと怖い話である。なにしろ、米大統領というのは、世界最強の軍隊の最高司令官なのだ。

どうして、連邦最高裁がこういう判断をしたかというのは理由は簡単で、任期も定年もない終身制の最高裁判事9人の現在の構成は、保守派6人、リベラル派3人となっており、かなり保守派に傾斜しているからである。最高裁判事を指名するのは大統領の権限であるから、保守派の大統領は当然のごとく保守派寄りの判事を指名する。

たとえば、リベラル派の筆頭格だったルース・ベーダ―・ギンズバーグ判事(RBG)は、トランプ政権時の20年9月に現役のまま死去したが、トランプ大統領は、その後任に保守派のバレット判事を指名している。

連邦最高裁の考え方は、全米に大きな影響を及ぼす。

<22年6月、最高裁は人工妊娠中絶を憲法上の権利と認めた1973年の「ロー対ウェード判決」を覆し、「中絶を規制する権限を国民とその代表者に戻す」と表明した。これを受けて多くの保守州が中絶規制を強化し、全米を二分する大論争が再燃した。>

<23年6月に大学の入試選考で志願者の人種を考慮する「アファーマティブアクション(積極的差別是正措置)」を違憲だと判断。多くの大学が選考方法の見直しを迫られた。>

<憲法や議会が制定した法律を尊重する「制定法主義」の日本と違い、米国の司法は過去の判例を重視する「判例法主義」を採る。判事による裁量の余地が大きく、個々の見解が判決に反映されやすい。解釈の余地が大きい憲法に関わる判決ではその傾向が強まる。>

つまり、日本よりも判事の裁量権がとても大きいので、判事がどのような政治的スタンスの持ち主かは重要である。それが、最高裁ともなれば、なおさらということになる。

日本人の場合、民主主義というものと多数決を混同している人が多いが、実はそうではないのだということが、米国の動きを見ているとわかる。

特に保守派である共和党の考え方というのは、もともとはエリート主義というか、一般大衆は優秀なエリートに政治を任せるべきというようなスタンスが伝統的にある。古代ローマの元老院のイメージであろうか。

リベラル派とされる民主党も、東部や西海岸の高学歴層に多く支持されており、共和党に比べれば、機会の平等だけでなく、結果の平等も重視すべきと考える等、いろいろな点でスタンスの違いはあるものの、実はさほど極端な違いはないと思われる。

二大政党制というのは、そういうものなのだろう。中間層の有権者の支持を双方が取りあう格好になるために、政策面で似かよってしまうのだ。

今回の最高裁の判断を見ていると、米国の大統領制というのは、任期付き(4年あるいは、MAX8年)の古代ローマ皇帝みたいな独裁者を選挙で選ぶ制度なんだなあと思ってしまう。

古代ローマと違うところは、任期が定められていることと、一応は選挙で民意に基づいて選ばれるという点であるが、古代ローマも軍隊の支持で皇帝が決まったり、いわゆる、「パンとサーカス」のような人気取りの政策が不可欠だったりと、一種のポピュリズムが蔓延っていた点、現代とあまり変わりはないような気もする。

結局のところ、政治に関しては、人間はあまり賢くなっていないようである。


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