岸田総理のウクライナ訪問について
Wikipediaによれば、<個人・組織がのちに不作為を責められないためだけに形だけ物事を行うことを「アリバイ作り」と呼ぶ>とある。
岸田総理のウクライナ訪問は、まさに「アリバイ作り」の典型であろう。具体的に何か目的があってウクライナに行ったというよりも、ウクライナに行くこと自体が目的だったから、ウクライナでゼレンスキー大統領とツーショットの記念写真を撮ればミッション完了ということだったのだろう。
もっとも、さすがに手ぶらで行っても、相手から「何をしに来たのか」と訝しがられるから、大盤振る舞いな支援を約束している。ウクライナまでの往復に要した費用もウクライナへの支援も、いずれも日本国民の血税が原資であることは言うまでもない。
5月に開催予定の広島でのG7参加国の首脳中、議長国である日本の首相だけがウクライナ未訪問であるということを、岸田総理はひどく気にしていたらしい。
だが、米国やカナダはともかくとして、陸続きの欧州各国(英国、ドイツ、フランス、イタリア)と日本では地政学的にも、地理的な距離もまるで違う。米国やカナダはNATO加盟国である。そうした前提条件を無視して、とりあえず「みんなと一緒」であろうとする心根を「小市民的」と考えるのは、岸田総理に対して意地悪過ぎるのであろうか。
手土産が地元広島の特産品の「必勝しゃもじ」というのも、不見識としか思われない。野党に批判される前に、誰か側近で止める人間が1人でもいなかったのだろうか。総裁選で「必勝しゃもじ」を飾るのは本人の勝手であるが、本物の戦争をやっている国を訪問して、「必勝しゃもじ」を渡すというのは、いかにも緊張感が欠如しているし、そんなことだから日本人は「平和ボケ」と言われるのだ。
今回の件に限った話ではないが、彼を見ていると、言動のひとつひとつが、いかにも軽いのだ。ちゃんと考えているのかなあと思ってしまう。たぶん世襲議員でお坊ちゃん育ちだから、一般国民の感覚を理解するのが苦手なのかもしれない。本人にそうした能力が不足しているのであれば、周囲のブレーンが助言すべきなのだろうが、いつの間にやら首相官邸には「イエスマン」ばかりが揃ってしまい、耳の痛いことを意見具申できるような人はいなくなってしまっているのかもしれない。
どんな組織でも、トップは孤独であると言われる。
しかし、孤独にしているのは誰か他人のせいではなくて、多くの場合、トップ自身なのである。勇気をもって諫言してくれる部下を遠ざけて、耳障りの良い話しかしない部下を寵愛してはいなかったのか。周囲の人間はトップの日頃からの言動や一挙手一投足をよく見ている。誰もが自分の身はカワイイから、どうすればトップのウケが良くなるかに敏感に察知する。
部下の能力が低くて使えないとか言うトップが少なくないが、そういう部下を周囲に集めたのはトップ自身である。部下は自分自身の鏡のようなものだと考えるべきであろう。
『貞観政要』は、唐の太宗(2代皇帝)の政治に関する言行録である。太宗は臣下の忠告・諫言を進んで受け容れるように努めていたという。昔の中国の皇帝の話であるから、どこまで本当かは知らない。だが本書はかつてはリーダーの必読書とされ、北条政子や徳川家康も愛読していたとされている。少なくとも、昔の時代の指導者は、イエスマンばかり周囲に集めることの危険性や、自分自身を諫めてくれる人材の有益性について、きちんと理解し、日頃から自分自身を戒めていたに違いない。
今のご時世、古典の話をしても、誰もあまり興味を持たないかもしれないが、人間というものは何千年経っても、あまり変わり映えはしないものである。岸田総理も今からでも遅くないから、誰かに『貞観政要』の講義でもしてもらってはどうだろうか。
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