無謬性という幻想について
人間は大して賢くもない。ましてや無謬ではない。エリートと呼ばれる人ほど、自分たちのことを過大評価しがちである。
ヒューマン・エラー、うっかりミスは一定の確率で起きるし、限られた情報に基づいて判断する以上、どんなに聡明な人であっても判断ミスはある。
無謬性といった幻想は捨てて、人間はしばしば間違えるものであることを前提にして、間違ったら、立ち止まって、修正する。それができるのが健全な組織で、それができないのがダメな組織だと思う。
自分たちは無謬(間違わない)と考えるような、謙虚さを欠いた組織は危険である。旧大日本帝国軍に旧大蔵省、それと不祥事を起こして、「想定外」を連発するような伝統的な大企業。自分たちが判断を誤るのが「想定外」とでも言いたいのであろうか。
とにかく、いくら優秀でも人間は間違える。間違えることを前提としていなければ危険である。この点に関しては、政府や官庁、自治体等の公的機関も、企業も同じである。
健全な組織かどうかの1つの判断基準としては、悪い情報、不都合な情報について、隠しだてせずに、きちんと情報共有が図られているかどうかというのは重要である。
企業において、カッコいい話、自分の手柄になるような話については、放っておいてもアピールするものである。一方で、華々しくスタートした施策が失敗したとか、トラブルを起こしたとか、想定していたほどの成果が上がらなかったといった悪い話については、ついつい報告を怠ったり、場合によっては、「なかった」ことにしたり、隠蔽しようとしたりする。いわゆる「大本営発表」と同じである。
隠蔽しないまでも、報告が遅くなる場合も、要注意である。報告が遅くなるのは、多くの場合、うまい言い訳の理由を考えているからである。「十分に調査をして、正確な報告をしようと思っていた」といった理由で、報告が遅いことを正当化しようとする人がいるが、そうしたスタンスがそもそもの間違いである。
何か良くないことが起きた時にやるべきことは、良くないことが起きたということに関するトップへの報告と事態の収拾である。原因の調査、再発防止策の策定等は、その後の話である。