「飛び級」について
前にギフテッドと呼ばれる特異な才能を持つ子どもの話を紹介したが、日本ではそういう子どもを受け容れる土壌が乏しい。
「ギフテッド」と呼ばれる突出した才能を特別扱いすることは不公平感につながるというような偏狭な考え方がまだまだ多い。
でもおかしな話である。サッカーの世界で、久保建英が小学生の時にバルセロナの下部組織に合格したり、16歳でプロ選手契約したことに関して、不公平だと言った人がいただろうか。
スポーツの世界では若くして才能を開花させる子どもがいても、称賛する声はあっても、それを不公平とは言わない。なのに、学業の話になった途端、能力別学級でさえ不公平と言う。ましてや落第とか飛び級というのは、タブーな話題ですらある。
これは、おかしい。
子どもは1人1人違っているのが当たり前であり、得意不得意があるのも当たり前である。そういう事実を認めた上で、進度に応じた指導を行うのは、勉学であろうとスポーツの練習であろうと、ごく当たり前の話である。
久保建英が「飛び級」的な扱いでプロ選手になったり、日本代表に選出されたのは不公平とは言わない。むしろ、本人の実力を考慮せずに年齢制限に基づいて「待った」をかけたとすれば、そちらの方が不公平な取り扱いであろう。
「機会の平等」は大いに結構だが、「結果の平等」は担保される必要はないし、担保されるべきではない。
それに、「飛び級」を果たしたから、その先の未来がどうなるかもわからない。誰も保障をしてくれない。
前に「飛び級」措置で大学に進学したものの、その後、研究者としては伸び悩んで、今はトラック運転手をしている元ギフテッドの男性がテレビ番組で紹介されていたのを見た。
久保建英だって、少年時代に比べたら、残念ながら、今はパッとしない。あるレベル以上にのし上がるには、才能プラスアルファの何か、運も含めたいろいろな要素が必要なのだろう。