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真夏のアリアス

真っ白なデッサン用紙にひたすら陰を入れる。光の当たっている部分は、描かないのではなく陰の中から生み出す。

初めて使う木炭は、チョークに似ているけれども、もっと紙に刷り込むような描き心地で、どことなく金属のような引っかかりがあった。

県立美術館の小ホールには、様々な制服の高校生が集まっていて、時折指導の先生の声がするくらいで、紙と鉛筆と木炭の摩擦の音だけがかすかにするだけ。わずかに外から蝉の声がする。

高三の夏休み前にもなって、「絵本作家になりたい」だの「フリーターになりたい」だの、明確な自分の進路を持っておらず、親どころか担任にまで頭を抱えさせたわたしに、そんなに言うなら一度こういうのに行ってみたらどうか、と担任が渡したのは、市内の美術の先生達がボランティアで開催する夏休みのデッサン講座のプリントだった。

わたしが通っている高校は、伝統ある女子高と言えば聞こえはいいが、歴史の古さだけが自慢で、堅苦しさと厳しさの集合体のような規則と、年齢が低いだけのオバちゃん生徒の重箱つつき集団に囲まれた息の詰まる毎日で、生徒のほぼ大半はそのまま附設の短大か大学にエスカレーターで進学していく。

気持ちのふわふわ具合はわたしとどっこいなのに、進路がその短大だとか大学だとかというだけで、三年生の担任達は「案件済」のスタンプを押し、友人の多くは一学期の末にはほとんど進路相談が終了していた。わたしが附設に進みたくなかった理由は、おおよそ学びたくもない専科ばかりなことと、三年間いた女だらけの世界からとにかく抜け出したい、という強い気持ちだけだった。

それと、「絵」。

これだけは譲りたくなかった。

なにがなんでも。

小学生の時からずっと、『美大に行きたい』がわたしの夢だった。

もちろん、『美大』に行ったところでに何になる、なんてのは頭になく、とにかく『美大』に行きたかった。『美大』に行って、思う存分絵を描いて、絵を学びたかった。

きっかけは小学生の時。教職の傍ら毎回日展に出品している、美術のY先生という熱心な教師との出会いだった。まだ「教師」が「親」よりも強かった時代。土曜日の放課後、Y先生は特別美術教室なるものを開催しており、その教室は誰でもが参加できるわけではなく、先生が認めるだけの「絵の上手さ」がなければ入れない、という「選ばれた存在」でなくてはいけなかった。絵を描くことの好きな小学生には、ある意味ステイタスだった。

参加を認められたわたしは、そこで毎週、デッサンの基礎みたいなものを学び、たくさんのクロッキー帳を潰すことに熱中した。度重なるクロッキー帳と4Bの鉛筆の購入に、親は渋い顔をしたけれども。

更には二年おきのクラス替えの際、嘘か誠か「絵の上手い子じゃないとY先生のクラスには選ばれない」との噂が生徒には浸透していて、本当に三年生でY先生が担任になった。そこで描いた絵は、市や県はもとより、全国の小学生の美術展に出品され、必ず入選し、文部大臣賞まで貰って全校生徒の前で表彰されたからには、ただでさえ調子に乗りやすい性格のわたしは、富士山より高い鼻を顔に張り付けた。

文部大臣賞を取った絵は地元紙にカラーで大きく紹介され、祖父母は大喜びで新聞の切り抜きを額に飾り、その他でも描いた絵が、いつ小学校に行っても正面玄関に飾られていると、折に触れ学校に来る母親が自慢げに褒めた。県の大会で入賞した時は、母親と一緒にこの美術館で表彰を受けもした。更にわたしを有頂天にさせたのは、Y先生がわざわざ家に電話してきて

「美大に進学させてやってください。才能が有ります」

と言ったことだった。文字通りお子さまであるわたしが、自分の絵は誰よりも上手い、と単純な脳みそに焼き印を押したのは当然だった。

だがしかし、それはたかが小学生の話。絵が入選したり学校に飾られたりしたことを喜ぶ母親も、わざわざ美大に進学させるということは、話半分の夢物語の笑い話であり、それよりも何よりも、県内にはない美術専科の大学に通わせるのは親の目の届かない県外に出すことで、とかく厳しい父親の頭が頷く訳もなく、決して許されることはないどころか、逆に絵ばかり描いていることを酷く叱られた。

かくして、小学校の頃からの夢だった『美大』は、夢のまた夢の存在になっていた。

明確な進路を決めなかったのは、実はこのことへの反抗が主な理由だった。

ちょっとした家庭の事情で、両親と妹の中で居場所が見つけられないわたしは、夕食後はほぼ部屋に直行し、黙々と絵を描いていた。それを母親は「天岩戸」と評し、高校の担任との進路相談でもその話題を笑い話として提供した。父親は偶然知り合った和服問屋の方に「娘さんなら希望の道に進ませてやってはどうか」と言われ、少し芸術に近い筋の助言から、若干態度が軟化した。そんな中の、夏休みのデッサン講座だった。

費用も先生たちがボランティアと言うこともあり、二週間の期間の割には、画材代を含めた二千円程度の講座費だけ。その程度の費用なら、と両親は快諾した。

同じ高校からは誰もその講座には参加せず、知らない制服に交じって、一人初めての本格的なデッサンを描くことになった。初めてにもかかわらず、本格的っぽいというだけで、鉛筆か木炭かどちらかを選べ、と言われ、木炭を選んだ。持ち手に巻かれたアルミホイルが、よりかっこよく見えた。

小ホールにいくつか置かれた石膏の胸像は、初日に好きなものを選んでよく、わたしはその中でも一番美しく見えた胸像を選んだ。

波打つ髪を品よくまとめ上げ、巻き毛を首筋に垂らし、わずかに小首をかしげ、ややうつむき加減に視線を落とすその胸像は「アリアス」という。

毎日、蝉しぐれに降られながら、自宅から3kmほどの美術館に通った。近道の監物台樹木園の急坂はさすがに自転車を漕ぐことはできず、汗を流しながら押して登る。登った先は二の丸の広い緑の多い広場だ。その入り口の対角に美術館はある。

昼食代だと毎日母親がくれる五百円玉は、初日は併設の喫茶店で使ったが、その後は思い直して行きと逆方向の坂を下り、バスセンターの地下にある喫茶店で、昼食を抜いた分、ココナツミルク・オレなるものを飲むことに使った。校則では飲食店に立ち寄ることは禁じられていたが、絵を描いた帰りに喫茶店でコーヒーを飲む、その行為が芸術家っぽいと勝手に感じていた。

昼食を抜くのにはもう一つ理由があった。Y先生が、「絵を描き始めたら飲食をするな」と言っていたからだ。絵を描いている時にものを食べると、集中力が切れて絵が駄目になってしまうから、というのが先生の持論だった。幸い、その講座でも昼食時間もぶっ通しで描き続ける生徒は多く、昼休みに席を立たなくても目立つことはなかった。高校生になっても、わたしはY先生の教えを忠実に守っていた。

百人近くいたであろう受講生は、見たことのある制服もあるし、見たことのない制服もいた。何より気になったのは、市内で一校だけある、美術科のある高校の制服だった。まさに、その高校の男子生徒がわたしの隣に陣取っていた。中学の頃、もちろんその高校を目指していたのだけれど、なんだかんだと理由を付けられ、そこの受験は両親から許されず、やっぱりそこで無駄に反抗したため、中三の夏休み明け、成績は駄々落ちした。結果受験したのは息苦しさ満載の通っている女子高だ。

でも、今、この場で、対等にその高校の生徒とデッサンをしている。三年間美術を専攻した彼らと、わたしが描き進めているデッサンは、何の遜色もないどころか、絶対にわたしの方が上手く描けている、という憤然たる自信があった。その高校だけではない、自分の視界に入るデッサン画のどれよりも自分の絵が一番上手いと自画自賛していた。

現に、生徒の周りを巡りながら、時折指導する先生の誰からも注意は受けず、小さく聞こえる描き方のコツを耳にしながら「そうか、そういう風に描けばいいんだ」と、少しづつ修正しながら描き続けた。二週間──────。

与えられた枚数は三枚。その中で一番良くできた、と思うものを十段ほどある階段の両脇に並んで立って掲げ、最後の三日間、最終指導を受ける、というのがその講座の締めだった。

指導は選抜式で、会場に置かれた数種の胸像を選んだ者の中から、同じ胸像を選んだ者が出来のいい順から数名残る。同じアリアスを選んだ隣の男子生徒は初日で落とされた。わたしの自尊心はますます高まった。三年間美術を専攻した生徒に勝ったんだ、負けるもんか、と。この中の誰よりも一番自分が上手いのだと。二日目もわたしは残った。当然だ、と思った。

そして最終日。

全員の中から選ばれた二十人ほどが残った。それまでは「はい君」だけで残るか否かを選ばれていただけだったのが、詳細な批評が入ることになった。ああ、本当の美術を教える先生というのはこうなのだ、と思うくらい、どの生徒も褒められることはなかった。悪い点ばかりをこれでもかと指摘されていた。厳しい指摘が聞こえるたびに、それでも、絶対、わたしは負けてない、と固く信じていた。

そして──────彼女は、わたしの横に立っていた。大人しそうな、美術科のあるあの高校の制服を着ていた。

彼女が選んでいたのは、精悍な表情で正面を向くマルスの胸像だった。マルスの像を囲む集団は、わたしが選んだアリアスの正反対の端にあり、通路からも離れていたので、一度も目にしたことはなかった。

しかし、繊細な筆致で描かれたそれは、非の打ちどころがなく、見ただけで完全敗北を自覚した。初めての経験だった。わずか十数年の人生で、これほど上手い子はどこにもいなかった。絶対に敵わない、と無条件で思った。描き慣れた鉛筆で描かれたそれは、角度も、影も、存在感も、なにもかもが凄かった。彼女の感性というフィルターを通した、マルスの像そのままを写し取ったものが、デッサン用紙の上に表現されていた。

ただただ、順番が来るまで彼女のマルス像に打ちのめされ続けた。

まだ、誰にも何も言われないうちから。

彼女の番が来ると、それまで厳しい批評ばかりだった先生達も、陰影の薄い鉛筆を選んだことが欠点であること程度くらいしか口にせず、終いには彼女に志望の大学を聞く始末。群を抜くとはこういうことか。

彼女が答えたのは、絵を描く生徒なら誰もが憧れる有名美大だった。

「そうか〇美大か」

「ここまで描けてるなら大丈夫じゃないかな」

「陰影は濃くね、もう少し強く描くことを意識した方がいい」

ちょっと前までの厳しい批評は、彼女にはなかった。

その横で、次に順番が来ることは分かっていながら、すでに馬鹿みたいに高くした鼻っぱしらを完全に叩き折られたわたしがいた。彼女の絵に対する言葉ひとつひとつが崩れた残骸に突き刺さった。

才能というものの天賦の差、というものを初めて知った。

この先何枚デッサンを描き続けたとしても、彼女の域には決して到達できない。実感した。貧血でも起こして倒れそうな程だった。

そして、彼女が目指している『美大』は、彼女と同程度の人間がひしめく世界なのだ、ということも即理解した。

批評という批評もなく、先生達の唸り声さえ聞こえた彼女の絵の次は、もちろんわたしが順番だ。

何かいろいろ言われた気がする。もう、ほとんど耳に入っていなかった。ただ、更に心が折れそうな言葉がなかったのは幸いだった。彼女の絵の前に完全に崩れ落ちたわたしには、それ以上に追撃する言葉はいらなかったのだ。

ふと、一人の先生が

「君は木炭デッサンは初めて?」

と聞いてきた。

「はい」と小さく答えた声は頷いたから分かったのか、音として届いたのか。

「ああ、じゃあ、それなら」

「あと何枚か練習してみたらいいよ」

急に手のひらを返したような、そんな言葉がいくつか他の先生からも返ってきた。救いの言葉かもしれなかったが、何の慰めにもならなかった。余計に惨めに感じるだけだった。

あと何枚、何十枚、何百枚描いたら。それよりも、もっと小さい頃から、Y先生に褒められた頃から、本格的に学んでいたなら、少しは、──────彼女に近づくことができただろうか。

答えは自分でわかっていた、否、だ。


二週間、向かい続けたアリアス。

白く、儚く、物憂げに視線を落とすアリアス。

そして、わたしの夢に引導を渡した美しいアリアス。


描いた三枚は雑に丸めて家に持って帰った。最後の日は喫茶店には寄らなかった。

居間に放り出していたそれを見つけた母が

「やっぱりお姉ちゃんは上手よねえ」

と言って壁に貼ろうとしたのを奪い取って、そのまま部屋の押し入れに放り込んだ。

それまで、お小遣いやお年玉で買い集めた画材は、全て学習机の底に片づけた。代わりに参考書を引っ張り出し、残りの夏休みはひたすら地理の勉強をした。

二学期の頭の進路指導で、担任には附設の短大ではなく、少しランクの高い別の系列の短大を受けることを告げた。その為の早朝講習の申し込みもした。担任が安心して喜ぶ様が見えた。



──────それ以来、わたしは一度も真面目に絵を描いたことはない。

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