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2枚舌な沖縄 2
文の続き。
堂々巡りして気づくこと。
よさこい踊りに服従して、楽しいと叫び、高知ほにやを賛美し、絶賛して、陶酔しておけば、仲良くする振りができたのかもしれない。
共感という意味で。
そして、作る価値を宗教信仰のように捨てればよかったのかもしれない。
多分、捨てれないだろう。
自分の血肉だから。自分の血肉から、人間関係を分析する方法を作ったし、自己分析して、思考のパターン作った。
沖縄ほにやは、踊りを輸入しかできなかった。
血肉から作ってない。血肉にしても、消費のみで、それから何か作った噂は聞いても、継続させてない。
沖縄ほにやの女たちは踊りの価値で人に物言う事しか出来なかった。それでしか力を持てなかった。踊りを正確にできることと笑顔で楽しむのが正義だったから。ズレると奴らはヒステリック。
私は、よさこい踊りに関心持ちきれなくなってた。他は陶酔感に満たされてた。ついてけなかった。
関心持ちきれなかったのか答えだ。
それでいて、踊り団体の組織については彼らは言えても、踊りの概念については、沖縄ほにやは無知だった。踊りの型のイメージの解釈については。今も聞いても答えないだろう。ほにやの受け売りのみだ。
神話の知識で成り立ってるから。
自分の楽しみはあるが、抽象的に物を考えて、図式を作ることや、理論を考えたりすることだ。
他人と共感できるものでは決してないし、できないと思う。
沖縄ほにや時代に、無関心にされたことがその証拠。
それに宗教のように踊りを崇拝したり陶酔するのは、本当の楽しさでない。共感性を拡大して共感させようとするやり方は、間違ってる。
陶酔感のみで人は生きていない。
楽しさのみで生きていない。
それだけだ。
楽しかったのは最初の数ヶ月のみだった。
よさこい踊りはよさこい節だけの空っぽなもので、材料となるものを集めて、ありあわせの材料て作られる。野生の思考だが、崇拝されるだけの野生の思考だ。