
強迫観念
強迫観念が強い。生きづらくなる。
元々20代の時からあったが、2020年のコロナ騒ぎからさらにそれが強くなった。
弱そうでいい人に見える人は多くいるが、何かしの権威に膝をつきやすい。そしていい人として生きている。そして、誰かがその権威やルールを破ったり逆らうと、うるさくなる。正解の時もあるが間違うときもある。もっとひどいのは、それを盾にして人、または個人に言いたい放題言う事いにある。
失敗することさえも許してくれない。自分では何かを失敗していてもそれを覆い隠して行う。社会落伍者には制裁されても、その後の立て直しは、この要素で難しい。
経験上、沖縄ではこの意識は強いかもしれない。
ゲンロンをさせたくない人に、言葉を出し始めた瞬間に封殺して、常識を盾にしてくるときがあるから。あの当時はきつかった。
話のずれというだけで言われて、フォローしてくれる人はいなかった。フォローしてくれる人がいないのが当たり前かもしれない。
そう考えるのは当時、関わっていた踊りのサークルは高級な意識を持つ方々で、高級な権威によって笑っていいて、高級な意識に共感、同調しない人やズレた人にはフォローはないのだろうと思う。自己責任で何とかしろと言われるのだろう。
昔の事だが、あるトラブルでこのサークルのボスが「お前の事、かばうのが精いっぱいだ」と言っていた。裏でかばっていたらしい。それならば話のズレで封殺されたり、叱責してくるときにフォローしてもらいたかったものだ。批判して立場が危うくなったので、手の平返した部分もあるかもしれない。人を心配しているとは知人から聞いてたが、実際は創価学会に入れることを目的にしていたと思う。そこに入れば人生すぐに良くなるよとも言っていたから。下手に仲良くすると誘われかねないと思っている。今も。事実選挙の時期になると、選挙のお誘いの電話を入れてきてた。
こういうこと書いても、甘えだの、自己満足、自己責任だの言って、共感のすり替えで言ってくるかもしれない。仲間意識をもっていても、共感性は踊りの上でしか成り立たないものらしいから。
自己分析して、踊りのサークルにいた当初はすごいと言われていたが、時間の経過によって悪い意味で「狂っている」といわれ、挑発的に「物書いてんだろ」といわれる。他人にわかってもらおうと思って書いて言ったこともあったが、失敗の肥やしだった。サークルという空間内で縄張り意識の強い女性もいた。彼女はアイドル的で、愛されキャラな側面があって、物わかりの良い人に見えた。
その女性に一度辞めたいと言ったら、逆切れされて、衣装代が高いのに何でと問い詰められた、この人に代金払ってもらった記憶もないのに。
彼女にとってこの踊りのサークルが、自由な場所で、共感しあえると思っている空間だったのだろう。同時にその共感性がないとヒステリックになる。私には彼女が他人には無関心だが、みんな=踊り、楽しいと思っている節があった。優しそうで、人の心配はするが、聞くだけの許容量がない。哀れみはするが、無関心。自分だからかもしれないが、仲違いする前からの傾向だった。
この当時からの生きづらさを思うと、きつさは何も変わってないかもしれない。「見る人も踊る人も楽しく」という共感性が意識の中に残り、連中のよさこい踊りが共感されたいと言う残りが、形を変えて残っていて嫌になる。
あの当時、共感性、感受性という言葉が踊りと共に、あって、メーリングリストで宣伝されてた。マスコミ的な宣伝性に見えてくる。
あの同調的な空気には逆らえなかったし、違和感も言いにくかった。言うと黙殺か当然であると言う感覚になる。やめてみて初めてその同調的な全体が見えてきた。おそらくここにいた人は解散しても気づかないだろう。楽しいとしか思ってなくて客観性も見えてないと思うから。過去を振り返るな、前向きとは言うが、そういう人は歴史を振り返ることには向いていないだろう。