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一応の振り返り
ほにや 沖縄の踊り団体が嫌いだったわけ。|dragoniata|note
共感性(仮)のすばらしさ|dragoniata|note
2件昔のこと書いた。
文句言われるトラウマもあるが、悲観的になる必要がないように思った。
ここは沖縄ではないから。
それにもう数十年前の話だ。話の整理をする権利はこちらにある。
個人感情を吐露するにも、相手に「いうな」というのがいるならば、よほど出されるのが都合が悪いのだろう。
ほにやのよさこい踊りのメソッドは、踊りの衣装+踊りの音楽+踊りの型で成り立つ。この仕組みはビジネスモデルであり、価値とは言われているが、彼らには今年行われる祭りのための踊りで必つの商品でしかない。
もっと言うと、踊りの衣装+踊りの音楽+踊りの型の要素の中で、踊りの型 だけが唯一変化できる。音楽の編曲された音の合図、♪のサイン、イメージに合わせて、変更される。昔所属していた時に、型が変化したとこぼしていることを聞いた。どんなに称賛されても、商品でしかない。陶酔するのは構成要素に魅力があるからだろう。
この陶酔性によって、フリークかマニアが作られると思う。
ただ、もうしたくはない。笑顔しろと言われる必要もない。私は踊る人形ではない。入ってた時を振り返ると、素晴らしい宣伝ばかりで素晴らしかっただけだから。MLの宣伝も素晴らしすぎて辟易してた。
後自分の人生を見ると、昔から可愛いと言われて、癒しの対象にされて言葉を封殺される覚えもない。記憶をたどると、幼少期はみんなそれを求めてた。嫌だった。期待ばかりされる。そのくせこちらの話はさせてはもらえなかった。それが話のずれに関わってくるのだろうと思う。
その意味の上で、仲間探せと言う。又は孤立気味で仲間だと言ってくるのがいる。仲間を持っているのでなく、「持たされた」だけと思う。仲間意識は良くも悪くも服従性をソフトに言ってくる。言っていては同調させる。それは発言や力の強い傾向に比例する。拮抗する間柄では反発しあって、中和される。それでも気が合うかどうかは別になる。
あの団体の仲間意識、価値観は効率なもので成り立っていた。
よさこい踊りという完成されたもので効率的に価値を作りだしていた。
みんなで、仲間とか言われるのはもう辟易だ。
でも、最後に笑うのは自分だ。永遠な物はないから。