nakama意識
生きていて、仲間という言葉が嫌いだ。
学生時代、卒業したての時に「仲間だ、仲間だろ?」という言葉を散々気化された。友情かなんかの美談のように効いた。
その当時にサークルにいた。自動車関係のサークルに学生時代にいた。よさこい踊りのサークルには卒業後にいた。沖縄時代。
沖縄の仲間意識は集団行動が強い。集団的で、人が集まり、人を利用することが強く、逆に自分という個人が人を利用したり、することはない。集団が個人を利用する事しか考えてなく、それを仲間として扱うらしい。
沖縄の仲間意識は徒弟のようなもので、仲良くなっても、仲良くはならない、徒弟のように付き合って数年後にやっと認められる。そういう素晴らしい所。
二つのサークルにいた共通点は、人か物かのカリスマに、男女関係なく自己陶酔して賛美する傾向があると言う事。自動車のサークルの場合はカリスマ的存在だったOBの凄さを崇拝していた。後者は高知から輸入したよさこい鳴子踊りと作り主のほにやを賛美していた。沖縄以外ではどうかは知らない。
崇拝したり、同調したりすること以外の物には無関心だった。又は無関心にして扱う傾向が強かった。二つのサークルはその意味での仲間意識が強かったと思う。
彼らは人の事を理解できないと言うが、そのくせ人の話には関心がない。話すと自己満足扱いするか、関心ないとしか言わない。自分たちのレベルが高いとしか思っていないためか、自分たちと対等でないものを下に見る。
沖縄に来るまで、私は仲間という言葉を使うことは少なかった。意識すると言うよりかは、縁のある人間とは過剰な仲間意識を持ったことはない。又は仲間という言葉を知っていても、使うことは多くなかった。それ以上に、仲良ければ、そういう言葉を使うことなく付き合える人間だった。
沖縄に来てから、仲間意識への同調さを食らうようになる。
体育会的な色が濃い所だったのかもしれない。イベントへの参加断るだけで逆切れするのもいたし。
この仲間意識は、うんざりだ。いざというときに相談しようにも対応する人間としか相談しろと言われないし、レベルが対等でないと下に見られる。
又は他人に利用されるだけされても、その逆はない。人間関係はギブアンドテイクとはいうが、対等でないか、相性の問題で値しないのかもしれない。
この経験した集団、二つの集団は、仲間意識が強すぎるためか、仲間意識を象徴化しすぎてて、自分たちの集まる人間を決めすぎてて、排他的になり、テーマ以外の事には無関心で、排他的な傾向が強すぎたのかもしれない。
よさこい踊りのサークルは、ほにやからよさこい踊りを沖縄で広めて沖縄の文化にするという高い理想をも持っていた。その上で新しい踊りを作るとも言っていた。もう解散したそうだが、彼ら彼女たちは自己陶酔のみだ。抽象的な概念を持ちえない。持たないどころか必要ないものと思っていた。あって、抽象的な思考の萌芽のみでその先の思考はまるでなかった。
踊りには型の動作を作る事と音楽を作ることが求められる。音楽の事はわからないが、型を作る動作は具体的なテーマに沿って作られる。そこには抽象的な思考や概念が求められる。後日聞いたら曲も踊りの動作も、外注して、外注先にコンセプトのみ伝えて任せたそうな。あるイベントで発表されたらしいが、それ以降お蔵入りになったそうだ。
自分たちで何も作りもしなかったのだろう。外注のみで。沖縄の文化作ると言っていたが、外注のみでは文化は作れない。自分たちで作り、狂うリスクもないと作れない。
丁度その当時、人間関係、トラウマで悩むことがあって自己分析して、私は、人間関係の体系を自分なりに作っていた。よさこい踊りのサークルにもいたが、この話をしてもまるで無関心だった。文書にして書いてやっと認められたと言うより、都合のいい所のみ口先でコピーされた。悔しいので抗議してやった。相手は謝ってたが。
どちらにせよ、彼等には狂って何かを作ることはしないと思う。ハード作る事には長けているのみと思う。抽象的な思考をして、それを話しても、「自己満足」、「あんなの役にたたない」、「他に行け」と目の前で言われた。しまいには「狂ってもの書きしている」とか。
こういう人たちがは何も生み出すことはない。楽しむだけしかしない。マウントとって踊りの上手い人が踊りのズレを上からしか言わない。それでいて不寛容だ。
まぁ、仕方がない。これがこの人たちの価値観だったのだから。
私もぼやいているだけだが、こんな人たちにはなりたくない。関わるだけで反面教師にしかならないし、もっと先に行きたい。
自己陶酔と妄想に浸るよりは手を動かしていたいから。