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相談という幻想

相談という幻想。
「何かあれば相談して」と数年前から言われてきたが、ほとんどうまくいったことがない。

昔から、厳しく育ったためか、周りに合わせることばかり言われてきて、辛抱、又は我慢することが多かった。祖父母は別だった。

「相談して」、「一人で抱えるな」とは言うが私には一種の挑発に見える。それは言われて応じると失敗が多い。そしてためた分の事を言葉にして出す。そう言ってくる人は自分には無責任に見える。

人によっては人を心配して哀れむそぶりを見せて、頼っていいと言うメッセージを送っている人もいたが、いざ頼ろうとすると避けられた。この人は八方美人で人に合わせて態度を変えやすい態度なのだろう。人に無関心なそぶりで、昔、自分が新聞社に投書したのが当たり、評価してくれる人の話を聞いて態度を変えてきたのだから。相手が悪かった。

人の心配をして、他人に共感的な態度ですり寄って無責任に接してくる人は、挑発に近いと思う。心配はするのに他人の特徴には関心がないし、聞く気がないならその資格はないと思う。人をさらに地獄に突き落としている行為と思う。

「困ったことがあれば相談して」。この言葉自体、述語に満ちていて主語はない。主語は空気を読めと言うに等しい。主語は括弧にくくられている。それが仕事の事か、何かの作業の事か、間柄の話か不明。空気、状況に限定されていく。

きっと、空気読めない人間にとっては感情的になりやすい言葉なのだろう。その一方で空気に合わない人間は言葉一つで排除して、ストレスを形式的に与えて、追い詰めていく事が行われているのだから。そういうことして、仲間だと言う懐柔する人間関係は偽善に等しい。

合わないなら他に行け、となるが、仕事でも人間関係でも、他を見つけることには大変だ。他行けという人は合理的か、その経験をしていることが乏しい人なのだろう。言論の自由はあっても、日常での言葉の封殺は起こりうることで、何かの価値観に同調していくのだから。




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