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沖縄時代 沖縄ほにやの振り返り 再 1209 2024


振り返り

当初は、何かあったら相談してと言われていた。凄い安心した記憶あった。
段々やっていくうちに、警戒するようにもなった。リーダーが創価の人間で、些細な話で、創価に誘われる怖さがあった。他の人はどうかわからないが、自分は他で前に経験したので、なおさらだった。

活動していくと、「個性の尊重」と言う言葉は建前であった。
数年後、「異文化礼賛」とか言っていたが、二つともリーダー
個人の理想だったのだろう。彼等にとって、ほにやのよさこい踊り以外は関心ないものだった。

同じメンバーの子に「苦しい話」出したら、病院の相談員に相談に行けだった。相手は踊りの同じ班のリーダーで年下の女性だった。相手を間違えた。

経験した分かったことは、この「沖縄ほにや」と言う社会はよさこい踊り以外の価値には関心がなく、陶酔して楽しむ為に団結してた。

横を向けば、リーダーが創価への誘いが待っていたし、反対側向いたら、病院に言って相談したら?にしかならない。正面向けば、楽しもうとしか言わない。個人の痛みには無関心だった。たぶん自分だけだったのかもしれない。

今思うと、優しそうに見えて、血も涙もない様な人たちだった。
自分には

リーダー

創価のリーダーは「現実逃避するな」と言ってたが、リーダーの方が現実逃避している。排他的で都合が悪いと「他行け」だから。彼にとっての現実は都合が悪いと排他的に言うのかもしれない。「異文化礼賛」なんてはりぼて。自力本願とか言うけど、カリスマに陶酔したら思考停止になる。
メンバーに意見出されて判断できない時にも、思考停止することが多々あった。

創価の人間にとっての「自力」は集団でするものらしく、カリスマに崇拝と陶酔をして思考停止して敬っているのだろう。そしてほかの仏教の宗派は敵認定して排除しているそうで、神話でさえ見下す対象になっている。

沖縄ほにやと言う社会のしくみ

沖縄ほにやは、よさこい踊りに陶酔して賛美、絶賛する。
同時に陶酔するのは仲間意識の証明で、陶酔して共感することにしか価値が無い。その為の仲間意識を作っている。その為の個性の尊重だろう。

踊り以外の価値には無関心な沖縄ほにやだった。
自分が過剰すぎたのもあったが、人間関係の分析やパターンの発見したりして語っても封殺されるのが厳しかった。目の前で×にされるし、無関心で、彼らはよさこい踊りを賛美する事しか許さなかった。しまいには病院行って相談員に相談しろになって終わり。前に団体内で「困ったことあれば相談しろ」ロは言われてたが、踊りと団体に関する物だけだったのだろう。

ある時、ボランティアしている私たちは素晴らしいと言っていた女性がいたが、偽善的に見えた。沖縄ほにやは仲間でなく自分には敵に見えた。
強い権威に群がり陶酔している人々だから。あてにもならない。
言葉の些細なずれとかでサブリーダーが封殺してきて、誰もフォローなし。それがあの団体では当たり前なのだろう。仕方がない。

踊りの練習はまじめにしてた方なのにな。楽しくないと人間扱いされなかったのかもしれない。でも社会の構図だけは見た。
優しそうな人が他人を哀れみ、過剰に仲間意識を訴えるが、その範疇に入らない人はいとも簡単に排除される。そして病院に行って相談員に相談しろ。又は薬のめになる。純粋まっすぐは共感社会だ。裏を返せば共感にそぐわないと排除のしくみになる。

どこかのバカ女が人を過剰に哀れむ事をしなければ、こんなことなかった。関心もないのに人を過剰に哀れむなと言いたい。

自己陶酔するア〇ばかりだった。精進しなければ。







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