【第1章】その9✤少女時代のマリーの好きだったもの
当時ブルゴーニュ公国のフランダース地方のこのゲントには、ヨーロッパ内でも最流行の動物園があったのだ
さてマリーの話に戻ろう。
洗礼式が終わり、マリーはお世話係のベルゼ夫人によって乳母の元へ渡される。
当時、高貴な身分の女性の子供には乳母がつくのが普通だった。しかもマリーの生家はフランス王家の傍流(ぼうりゅう)家のブルゴーニュ公爵家である。
乳母は時々マリーの母シャロレー伯爵夫人から貴重な蜜のかかった甘いお菓子を贈られた。乳母は幸せな気持ちでいなければ、子供に悪影響を与えると信じられていたので、乳母には時折、お菓子以外の高価な贈り物も与えられたものだ。
ブルュッセルのクーデンベルグ宮殿は堅苦しい上に、政治的な理由からもなんとも落ち着かないということで、マリー誕生後、マリーと両親はエノー南部(注1参照)のエノー伯爵家の居城だった要塞のお城に引っ越し、またそれと同時期にマリーの父方の祖母イザベル・ド・ポルトガルも宮廷を離れ、世間から遠く離れたニエップの森(注2参照) の中にあるラ・モット=オ=ボワ城に隠棲(いんせい)したため、マリーは祖父であるフィリップ善良公はもちろんのこと、祖母にもほとんど会うことはなかった。
生まれた時から乳母がいて、世話係がいて、教育係がいて、とマリーは母イザベルと住んでいる間でさえ母と共に過ごす時間は少なかったので、6歳の時に両親と離れてゲントの城塞に住むことになった時も、子供時代から教育係で、家庭教師でもあったベルゼ夫人が一緒だったので、さほど寂しさは感じなかった。
それでも本当は、母イザベルはマリーをホルクムの城へ共に連れて行きたいと願ったことに間違いないのだが、両親と分かれることになった大きな理由は、その母イザベル自身が喘息気味であり、それがマリーに伝染することを皆が心配したこと、もう一つはゲントの市民達の強い要望もあり、マリーは両親と別れゲントに居住することを余儀なくされる。
ブルゴーニュ公国内で最も財力があったゲントやブルージュというフランダース地方の市民達の要求を撥ね付けるわけには行かず、シャルル突進公はその案を承諾した。言わば人質のようなものでもあったが、それでもゲントの市民達は「美しき我らが姫君」とマリーに熱狂し、彼女の大きな支援者でもあったのだ。
このように広い国土を支配する際には、国の民達の心を惹きつけておくことは非常に大切なことであり、マリーをゲントに留めることは政治的に大変重要なことでもあったのだ。
また中世においては、君主は居住するお城をいくつも所有していて、色々なお城へ居住地を変えるというのも当時普通のことだった。
ところでゲントのテン・ヴァレ城(注3参照)はフィリップ善良公が修復した古代の要塞だったが、強力な石壁を持つ300もの部屋のある大きな邸宅で暖炉もふんだんにあった。装飾はクーデンベル グ宮殿のような豪華さはなかったものの、白鳥が泳ぐ内堀や、バラ、 マジョラム、クローブ、ツゲなどが生い茂る庭が全体を気持ちよく取り囲んでいたし、従兄弟など親戚の子供達もよく遊びに来ていたので、それなりに楽しい日々を送っていた。
またなんといってもマリーを喜ばせたのは動物園(注4参照)の存在だった。15世紀に動物園とは突拍子もないと思われるかもしれないが、当時ブルゴーニュ公国のフランダース地方のこのゲントには、ヨーロッパ内でも最先端の動物園があったのだ。
そして動物園はゲントの宮殿だけではなくて、ブリュッセルの宮殿やブルージュの宮殿にも既にあった。
この動物園は既に14世紀には存在していたのだが、ゾウ、ラクダ、クマ、 ライオン、ヒョウなどがいてマリーの興味を引き、祖母のイザベル・ド・ポルトガルの実家であるポルトガル王家が、アフリカのポルトガ ル植民地から定期的に送ってきたサルやオウムをこのゲントの動物園へも送ったため、マリーはこれらの 飼育を熱心に続けていた。
この小さな王女のオウム好きは、当時ヨーロッパのすべての宮廷に知れ渡っていたほどに有名だったのである。
こんな環境からも、マリーは大の動物好きな心優しい少女として伸びやかに成長することとなる。
※この絵は有名な「鳥を持つマリー・ド・ブルゴーニュ」の肖像画
(注1)
現在のベルギーのエノー州、モンスやシャルルロアの付近
(注2)
現在のモルベックにかつてあった森で、ベルギー国境沿いのフランスのオー=ド=フランス地域のノール県に属している。
(注3)
オランダ語では《Hof ten Walle(ホフ・テン・ウオ-ル》
1500年マリーの孫に当たるカール5世がここで生まれて以来 《Prinsenhof (王子の宮殿)》と呼ばれるようになる。
現在この城は取り壊されなくなっているが、ここにはカール5世の像が立っている。
(注4)
この動物園がオランダ語で《Leeuwenhof(レーウェンホフ)》という名前だったのは、オーストリア、ブルゴーニュ、フランドルなどの名前のライオンが最大9頭いたことがあったため。
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主な参考文献
「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著 (ISBN 3-512-00636-1)
「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumont著 (ISBN 978-2-213-01197-4)