囀るを読んで傷つく人

正確には、古傷が痛む、閉じかけていた傷口が開く、というべきか。

56話公開後、私は50話の時同様どんよりと苦しい気持ちになってしまった。前向きに主人公の二人の関係性が進んだと湧き立つファンの人たちのコメントを見ながら、自分の中ではむしろ逆行したように思えてひどく落ち込んでしまった。

作品自体がいつもセリフや情景で事細かく説明されているわけではないので、いろんな解釈があるのは理解している。けれど、私は初見でやはり再び深く傷ついてしまったのだ。

喜び湧き立つ場でその傷を晒す気になれず塞ぎ込んでいる中、同様に深く傷ついたファンの方数人と話すことができた。その中で気がついたことは、囀るを読んで傷つく人は多かれ少なかれ登場人物と同じような経験をして、とても深く傷ついた経験があるということだ。

七転八倒しながらどうにか治癒した心の傷が、矢代さんや百目鬼の言動を見ることで再びパックリと開いて、その時の心の痛みが鮮やかに再現されてしまう。例えそれが実際にヨネダ先生が作品の中で描こうとしていることとは異なっていたとしても。

私が話した人の多くは矢代さんの心情を思って深く傷ついた人だったが、百目鬼の心情で傷ついた人もいるだろう。誰かに堂々と言えはしない、だが恐ろしく自分を破壊した過去の経験。心の痛み。

深い心の傷に無理やり分厚いセメントで蓋をして、何もなかったように笑顔で生活する。自分を傷つけることでしか自分の存在意義がわからない日々。本当に求めているものを言えない自分。全てをかけて真摯に向き合ったのに去っていってしまった人。親との断絶。矢代さんや百目鬼と全く同じ体験でなくても、何かしらの状況でそんな自分に苦しんで、それでもそんな痛みを心の中に抱えて生きてきた人は少なくないはずだ。

囀るの主人公や登場人物が魅力的なのは、そういった深い心の傷や痛みを抱え、踠きながらも生きていく人間であるからだと思う。そういう強さを持って、誰か大事な人を求めながら生きていく姿に共感し、自分の理想、在りたい姿を見出すのだろう。矢代さんや百目鬼を見ながら、鏡のように自分自身を見ているのだ。

改めて先生の「どうしても触れたくない」や囀る連載初期のインタビューを読んでいると、この読者が感じる痛みはヨネダ先生自身が感じた痛みでもあるように思える。作品の中で登場人物の心の痛みを描きながら、それに寄り添っている先生の気持ちが、囀るをはじめとしたヨネダ先生の作品全般通して読者を惹きつける理由ではないだろうか。

矢代さんや百目鬼のどの部分になぜ共感するのか、なぜ囀るを読んで傷ついてしまうのか。その理由を大きな声で具体的には語れない、というファンの方も少なからずいるのではないかと思う。

語らなくていい。ただ、言えることは、その痛みは孤独ではないということだ。

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