矢代さんの幸せとは(ネタバレ有)
※4/9 AM追記
矢代さんの身勝手さ
先日クロエさんと話していて、7巻以以降の矢代さんは人として残念すぎるという話題になった。
詳細は長くなるので割愛するとして、概要としてはこうだ。自分からちょっかいを出したのに、結果として自分を愛した百目鬼に銃を向け、その思いにも自分の気持ちにも直面せず逃げた。そして7巻以降も何もなかったことにして4年間漂泊していただけだった。
本当に百目鬼を大事に思っていたのなら、会わないにしても裏から手を回してちゃんとカタギに戻れるようにするぐらいはできたはず。本当に優しい人ならなぜ惚れた相手にそれぐらいのことすらやらないのか。なぜ被害者的に目を背けて、ただゾンビのように生きるだけだったのか。
矢代さんに関わってしまったがために、百目鬼は家族を捨て、完全に犯罪者になってしまった。闇金とはいえ2億円を強奪し、仁姫ちゃんを救出するために相手数名を半殺しにし、債務者に暴力を振るうことも厭わない。
百目鬼を受け入れられなくても、それを阻止するぐらいするのが本当に「強くて優しい人」なのではないか。自分の身勝手さ故に相手を大いに傷つけ捨ててしまった自覚があるなら、例え再会しても是が非でももう近寄らないのが筋ではないか。
というように、矢代さんの7巻以降の人間性については、常識的に考えると確かに自分勝手極まりなくて酷い。過酷なトラウマがあるから仕方がない、とは言えないだろう。百目鬼は矢代さんの人生に巻き込まれたのだ。いや、自分から飛び込んだのかもしれないが。
そして私は矢代ファンなので、矢代さんの心の痛みに共感するがあまりにこのことから無意識に目を逸らしていたかもしれない。このことに気がついて百目鬼の目線になると、4年間、そして現在の百目鬼は不憫すぎる。
でも、愛し合っていてもそうやって間違って傷つけあってしまうのが人間なのだ。その人間らしさのリアリティが囀るの、ヨネダ先生の大きな魅力なのだ。
何故矢代さんは「幸せ」になろうとしないのか
矢代さんの人間性についての是非はいったん横に置いて、疑問が湧いた。なぜ矢代さんはあんな行動しか取れないのか。矢代さんは「綺麗で強くて優しい」人ではなかったのか。どうして百目鬼に再会して何度も肌を合わせても、自分の気持ちに正直になれないのか。
なぜ矢代さんは自分で積極的に幸せになろうとしないのか。なぜ百目鬼に本心を明かして素直に謝れないのか。4年の間忘れようとしてもどうしても忘れられなかった相手ではないか。なぜ本当に大事な人を大事にして、相手からも大事にされるよう、自分から行動しないのか。
結論として浮かんだのは、矢代さんにとって「幸せを得る」「幸せになる」ということは恐怖であるということだ。
「幸せ」の拒絶と引き換えの「強さ」
矢代さんは「幸せを知らない男」である。小3に義父に犯され、母親からも見捨てられ、義父の、あるいは見知らぬ男の性的玩具としての自分をアイデンティティとして生きてきた。
単行本2巻で、銃撃を受けて救急車で運ばれる最中の走馬灯で
「俺は 全部受け入れて生きてきた
何の憂いもない 誰のせいにもしていない
俺の人生は誰かのせいであってはならない」
というモノローグで語っているように、矢代さんは自らの過酷な境遇を全て飲み込むということで自分自身を守ってきた。無抵抗であること、何もかもに受け身であることで、逆にいかなる逆境にも耐えうる鎧を身につけたのだ。
だがそこには完全なる本心でその鎧を身につけたわけではないという抵抗も見える。「何の憂いもない 誰のせいにもしていない」というのは、「これは自分のせいではないと泣き叫んで訴えたい」という願望の裏返しの言葉であり、「俺の人生は誰かのせいであってはならない」というのは「誰かのせいだと訴えたところで誰も助けてはくれない。だからそんな希望を抱いてはならない」という自分自身への強い戒め、縛りである。
つまり「幸せを求めてはいけない。自分は幸せとは無縁である。」と思い込む、無理やり自分を納得させることで、身に起きた不幸から目を背ける強さを得たのだ。
幼い矢代さんは、誰かがこの不遇から助けて「幸せ」になれるという希望を捨てた。「幸せを求める心」は「弱さ」で非力な子供の矢代さんにとっては致命的である。「幸せ」と無縁でいる限り強さを保ち続けていられる。求めなければ失わずにすむ。手に入れなければ失う恐怖に怯える必要もない。恐ろしく悲しい境遇に打ち勝つために、幼い子供が選んだ生存本能だろう。
矢代さんという人は「幸せと無縁」という重い鎧で自分を守って生きてきたのだ。
だがそれは、自分自身を不自然に捻じ曲げたにすぎない。心の奥底では「なぜ自分はあんな目に遭わなければいけなかったのか。何故自分の人生には救いがないのか。俺には本当にこんな生き方しかできないのか」という気持ちがあるはずだ。例え無意識レベルであったとしても、それは人間が安心して生きていきたいという本能であり、持っていて然るべきである。
そしてその願望こそが身に纏った鎧の弱さであり、その願望をうちに収められなくなった時に鎧は壊れてしまう。そのことを最初に認識したのが影山への想いに気づいた時だった。
影山のことを思い続けながら鎧に入った小さなヒビが次第に広がっていくのに矢代さん自身も気づいていただろう。そしてそのヒビに楔を打ち込んだのが百目鬼だったのである。
矢代さんはどこかで「幸せ」と自分を隔つ重い鎧を脱ぎたかったのかもしれない。だがそれは内なる脆弱な自分自身を曝け出してしまうことだ。「幸せ」を求め、失い、あるいは失うことに恐れ、傷ついてしまう、蛹から羽化したての蝉のようにか弱い自分。この世界の無情さ、冷酷な一面を知りすぎている矢代さんだからこそ、30年自分を守り続けていたその鎧を脱ぐことが容易でないことも解っていただろう。
つまり矢代さんにとって「幸せ」になるということは、「幸せ」を求めるということは、あたかも吸血鬼が肌が焼け爛れ最悪塵と消えると判っていていながら、普通の人間であった時の日光の温かさの記憶を求めて日向へ足を踏み入れるようなものなのだ。
「幸せ」と「快楽」の境目
そして矢代さんの中では、幼少期に「幸せ」という感覚を諦めたが故に「幸福感」と「快楽」の差がわからない。哲学的にいえば前者は「精神的快楽」であり、後者は「肉体的快楽」というべきなのかもしれないが、ここではあえて「幸福感」と「快楽」としておく。
わかりやすく言えば、空腹を満たすためにカップラーメンを食べるのと、誰かが栄養や好みを考慮して自分のために手間をかけて作ってくれた食事をいただく、の違いのようなものだ。
前者は自分の生理的欲求が満たされて、尚且つそれなりに美味しいければ要件は満たしている。カップラーメンを作る人間が食べる人間のことを個々として考慮していなくても、食べる方はそれなりに満足する。快楽を与える側と享受する側はほぼ断絶して互いに自己完結している。
だが後者には作った側に相手への配慮や思いがあり、食べる側もそれを受け止める。単なる食事の味覚だけでなく、作り手や食べる側の感情も食事の付加価値となり、双方向なプラスの感情のやりとりが発生する。
食事をセックスに置き換えれば、矢代さんは今までインスタントやファーストフード食べるようなセックスしかしたことがなく、手料理の肉じゃがのようなそれはしたことがなかったのだ。
ファーストフードだから、飽きれば食べ残してすぐに捨てる。味の深みや栄養価などは求めていないし、そこそこ美味しくて空腹が満たされればそれでいい。それを食べて自分がどう思ったかも、自分の感想に相手がどう思うかも気にする必要がない。自己完結してしまうのだ。(続く)