いま思い描く、晩年のある夏の一日は?(小原信治)
人生は円錐だ
「好きな図形は?」と聞かれたら、迷わず「円錐です」と答えるだろう。人生は円錐だ。可能性はいつも尻すぼみで、後戻りできない時間とともに誰もが円錐の底辺から頂点へと向かっていく———。
なんてことを雑記帳に書いたのは三十代前半のことだ。
五十代を過ぎた今もその思いに変わりはない。老いる、というのはできないことが増えていくこと。できないことが増えていくのは、できることが限られてくること。見方を変えれば、余計なものを削ぎ落としていくことでもある。余計なものなどないよね、と歌っていたシンガーソングライターが人生を踏み外したのは、やっぱり余計なものに手を出してしまったからなんだと思う。1日は24時間しかない。人生には限りがある。すなわちできることは限られている。あれこれ手を出して未完成の絵を数多く残すよりも一枚の絵に全集中して完成品を残して生涯を終える方が有意義なんじゃないか。と僕は思う(どちらが優れているという話ではありません)。
年を重ねることをそんな風に捉えているのは、物心ついたときからずっと余計なものを削ぎ落としながら生きてきたせいでもあるのだろう。むしろ円錐の底辺を漂っていた頃———可能性が大きい年頃だからとあらゆることをやらされていた子どもの頃は焦燥感に駆られ、苛立ってばかりいた。得意なことと不得意なこと。向いていることと向いていないことを早いうちに自分なりに理解していた僕(早い段階で自分に見切りをつけていたとも言える)は不得意なことや向いていないことに時間を割かなければならない学校教育に理不尽さしか感じていなかった。奪われるのは時間だけじゃない。それに必要とされるもの———具体的に言えば不要な科目の教科書とかノートに限られたスペースが奪われることも生理的に許せなかった。高校受験を終えた春には「大学には行くつもりがないから」と勉強机を勝手に処分して親を呆れさせたこともある。
我ながらちょっと病的だと思うくらい削ぎ落とし続けるその性分を初めて肯定されたような気がしたのが、二十七歳のときに出会った一冊の本だ。
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