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文字連れ

おはようございます。きょうも書いていきます。

#noteのつづけ方 というお題企画について、考えてみたいと思う。これは僕自身もnoteを書きながら、たまに考えている。毎朝書くと決めてから今日に至るまで、noteを追いかけ、noteに追いかけられてきた。

はじめに極端なことを言うと、書くことに支配されてしまえばいい、というのが僕の持論だ。書けないとき、目の前にあるものをどうにかしてねじ伏せてやろうと考えがちなのだが、それは到底無理である。それより身を任せてしまえばいい。負けるが勝ちである。

人間関係とも似ているかもしれない。相手をどうにかしたいという気持ちでうまくいった試しがない。意図的、支配的なものに心は動かされないのだ。それは相手の心であり、自分の心でもある。書いている、書けているという自意識にのっとられないことだ。

白いスペースに一つ、語句なりセンテンスを置いてみる。すると、不思議なことに次の字がくっついてくる。文字が文字を連れてくる。noteをつづけるのは、単にこの延長ではないか。集まっているところに、集まってくるのである。

こう書くと、オカルトチックで、他人(?)任せと思われるかもしれない。しかし、僕は何がしかを表現することは自己からの離脱であって、執着ではないと思っている。机にかじりついて書いたような文章はやはり見苦しい。余所事くらいがちょうどよいのではないか。

そして今日もまたこうやって、文字に適当に任せている。はじめは「noteのつづけ方なんてわかんないよ」と思っていても、こうして書き出すと仲間が集まってくる。僕らもこんな集合体なんじゃないだろうか。

だから適当に、はじめてしまえばいい。あとの文字は前の文字が拾うから。最初の一文だけ、目を瞑る。名文じゃなくても、吐き出すような気持ちで、書いてしまう。そこから先はオートメーションだ。信じて、預けてしまう。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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