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それでもなお〈トラブル〉を引き受け直すこと、あるいは「出会い」を到来させるために――藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム』

 たしかに生は、己の与り知らないトラブルに直面し巻き込まれ続ける混乱の過程である。しかし、己の与り知らないトラブルを、それでもなお己の身において〈トラブル=とり乱し〉として引き受け直すとき、生は、新たな〈トラブル=問い〉を創造することを繰り返す予見不可能な過程となる。
 藤高和輝の新著『〈トラブル〉としてのフェミニズム――「とり乱させない抑圧」に抗して』は、ジュディス・バトラーと田中美津から受け継いだ〈トラブル=とり乱し〉というキーワードを、身体的かつ倫理的な概念として描出する試みだ。そして、さらに藤高が本書で私たちに示そうとするのは、その〈トラブル〉こそが、フェミニズムの歴史における実践と理論の両面を駆動させてきたものに他ならないということだ。

理解不能で理不尽な仕方で作られているこの社会的世界を私たちが生きている以上、〈トラブル〉は避けようがないし、この〈トラブル〉はなによりもまず身体的な水準で生じる。ジュディス・バトラーは身体の基礎的な様態を、「直面すること(coming up against)」と規定している。私たちは身体的な存在として、意図しようとしまいと、この世界に様々な仕方で「直面する」

p.13、強調引用者

 身体的な生が何らかの暴力に曝されるとき、人はまさにバトラーの言う「茫然自失(beside oneself)」の状態になる。身体への打撃が、並行するように精神(思考)にも同時に影響を及ぼすことは言うまでもない(同様に、精神的な傷もまた身体に影響を及ぼす)。何よりもこの〈トラブル〉は、身体も思考もままならない「やむにやまれぬ」状態に私たちを陥らせる。
 しかし、そもそも私たちの身体的な生は、そのはじまりからつねにすでに〈トラブル〉に巻き込まれているものではないか。

バトラーは、身体は「私」の所有物ではないと論じている。むしろ、身体とははじめから、その「外部」に曝され、依存したものであり、その「外部」との関係そのものが身体を形成している。〔…〕身体とはそのような「外部」に依存した「不安定(precarious)」で「傷つきやすい(vulnerable)」存在であり、「私」が所有し、自由にコントロールできる対象ではない。

p.110

 身体がはじめから依存しているこの「外部」には、物質的条件のみならず、「他者」や「社会的世界」も含まれている(p.112)。したがって、「『外部』との関係そのものが身体を形成している」とは、私たちの身体が、「他者」や「社会的世界」の要請する様々な「承認の規範」との絡まり合いの中で形成されていることをも意味する。そして、そのような「外部」への依存なしには生きられない「社会的現象」である身体的な生は、この「承認の規範」をめぐって〈トラブル〉に絶えず直面することになる。それが〈トラブル〉であるのは、「どの身体も一律に同じ仕方で苦境を耐えている」のではなく、「ある身体は他の身体より傷つきやすく、不安定な状態に曝される」という「プレカリティ(不安定性)」の「差別的な配分」が行われているからだ(p.113-114)。
  例えば、私たちは社会が要請するジェンダー規範をどれだけ体現しようとしても、その「完璧な例」になることはできず、「女/男になること」に「失敗」し続ける〈トラブル〉を経験する。このような〈トラブル〉は誰もが「避けえない」もののはずだ。しかし、

ジェンダー規範はあたかもそのような〈トラブル〉などなかったかのように「自然」を装う。この意味で、ジェンダー規範はその規範を逸脱した者たちを容赦なく〈トラブル〉に陥らせる暴力的な機制であると同時に、田中美津の言う「とり乱させない抑圧」でもある。〈トラブル〉や〈とり乱し〉は「私個人の問題」とされ、私たちが表立って〈トラブル〉を表明するとまさに「私」そのものが社会的な〈トラブル〉になる――そして、社会に〈トラブル〉を起こす厄介者として忌避される――ため、私たちはあたかもそれをひた隠しにするよう要求され、〈トラブル〉を表に出さないよう抑圧される。

p.33、強調著者

 私たちの身体的な生は、意識的にも無意識的にも「外部」にある様々な規範との関係なしには生きられない。そして、その規範そのものが私たちを〈トラブル〉に直面させる契機をつねに孕んでいる。しかし、歴史的かつ偶発的に作り出されているはずの規範は、あたかも「普遍」的なものであるかのように「〈トラブル〉などなかったかのように『自然』を装う」。実際には、そこでは承認される生と承認されない生とが差別的に配分されており、さらには〈トラブル〉を「私個人の問題」として覆い隠す「とり乱させない抑圧」が作動している。
 では、この至るところで作動している「とり乱させない抑圧」に、いかにして抗うことができるだろうか。また、〈トラブル〉に直面し、ときには「自らを傷つけさえしながら」も「茫然自失(beside oneself)」の状態になった身体的な生が、それでもなおこの〈トラブル=とり乱し〉を己の身において引き受け直すのは、いかなる理由によってだろうか。

「茫然自失」あるいは「とり乱し」とも訳しうる“beside oneself”は直訳すれば「自分自身を脇に置いて」と訳すことができる。バトラーによれば、“beside oneself”は「穴だらけの境界線を生きること、他者に明け渡されていること、自分自身から自己が引き離される欲望の軌道において自分自身を見出すこと、自己が根拠の中心にはならない他者の領域において不可避的に状況づけられ直されること」を意味し、その様態は「他者への倫理的な巻き込まれと一人称の混乱の感覚」を確立するものである。自らの〈トラブル〉をさらすことは「他者に明け渡される」様態であり、自らの傷をさらし、傷つけられやすい状態に置くことである。

p.53-54、バトラーの引用は『Undoing Gender』(著者訳)

 本書のエピグラフとして掲げられている「とり乱させない抑圧は、最も巧妙で質が悪い。その抑圧はヒトとヒトとの間から出会いを取り上げる」という田中美津の言葉通り、私たちそれぞれの〈トラブル=とり乱し〉は「私個人の問題」として「ひた隠しにするよう要求され」る。私たち身体相互の「出会い」は引き裂かれてしまうかのように見える。しかしそうであるならば、それでもなお私たちの身体的な生が〈トラブル〉になる、つまり「beside oneself」にならざるをえないのは、「他者への倫理的な巻き込まれと一人称の混乱の感覚」を通して、「出会い」をこの世界のただなかに到来させるためではないか。
 「自らの傷をさらし、傷つけられやすい状態に置くこと」は、「他者の『傷』や〈トラブル〉を触発する」(p.54)。自己と他者双方にとって危険な、不安定な「触発」の場において「出会い」は到来する。自らの〈トラブル=とり乱し〉が他の〈トラブル=とり乱し〉へと繋がっていく。
 さらに藤高によれば、〈トラブル〉とは、〈いまだ実現されていないもの〉の「顕現」であり「合図」であると言う。〈いまだ実現されていないもの〉は、「現行のヘゲモニーにおいて、居場所をもたず、排除されているものであり、『いま・ここ』における『語りえるもの』から零れ落ちるものである」。つまり〈トラブル〉は、「普遍」と称しながら差別的に配分された「承認」の枠組みから排除された者たちによる、「具体」的な、「〈いまだ実現されていないもの〉を『体を張って=身体を境界線上に置いて(put one's body on the line)』示す」身体的かつ倫理的な実践であるということだ(p.76-77、強調引用者)。

この「体を張って=身体を境界線上に置いて」という表現から想起されるのは、例えば、警察権力を前に対峙するデモ行進者たちの身体であり、その身体はまさに〈トラブル〉にさらされているものとして存在する。「境界線上」というこの位置、それは、既存の普遍の構造から排除され、声を奪われた存在が、しかし、そのとり乱した身体を通して、声を上げ、支配的な規範を揺さぶる、そのような位置を示しているだろう。

p.76-77

 本書ではこのような「put one's body on the line」の実践の一つの例として、伊藤詩織さんがかつて性被害にあった当日の「その服」を着て行ったフラワーデモにおけるスピーチが挙げられている(p.52-56)。〈トラブル〉を己の身において引き受け直すその身体的な実践は、サバイバーをはじめ別の〈トラブル〉を抱えた者たちとの「出会い」を到来させ、集団的行為へと発展する。そして、それは暴力を可能にしている既存の社会的・制度的構造を批判することを通して、〈いまだ実現されていないもの〉を「いま・ここ」に手繰り寄せようとする倫理的な実践だ。
 冒頭にも述べた通り、そもそも私たちの身体的な生は、そのはじまりから〈トラブル〉に巻き込まれている。本書の第一部・第三章では、サルトルやボーヴォワールの実存哲学をバトラーとともに読み直している。実存概念に賭けられているものは「主体にとって外的状況である世界に投げ込まれるという主体の『脱自(ek-stasis)』という存在条件」であり、主体の「偶然性や受動性が強調されて」いる(p.83)。よく知られた「アンガージュマン」も「『参与』と『拘束』という一見相矛盾する意味が含まれた言葉」である(p.98)。

自分が選択したのではないが、しかし自己の存在の条件を形作っている社会的状況や言説をいかに「引き受ける」のかという問い〔…〕。「引き受けること」はその響きから単線的な過程に思われるかもしれないが、実際には、矛盾に満ちた予見不可能な過程である。私たちは自分が選んだわけではない存在の条件に巻き込まれながら自己を形成するが、その存在の条件を構成する権力や規範に単に「服従する」わけではない。そこには、同一化も反抗もあれば、その他の予見不可能な過程が存在する。

p.98

 この世界に「直面した(coming up against)」身体的な生は、意図しようとしまいと〈トラブル〉に巻き込まれる。しかし、「茫然自失(beside oneself)」の状態に陥ってもなお己の身において〈トラブル=とり乱し〉を引き受け直そうとするのは、「体を張って=身体を境界線上に置いて(put one's body on the line)」示す実践を通して、自身の〈トラブル
=とり乱し〉が他の誰かの〈トラブル=とり乱し〉を「触発」する「出会い」を到来させるためだ。その時すでに私たちの身体的な生は、「具体」を捨象した「普遍」や差別的に配分された「承認の規範」の「境界を攪乱する」(竹村和子)という、〈いまだ実現されていないもの〉を賭けて行われる「予見不可能な過程」としての〈トラブル=問い〉の生成過程に身を委ねているのだ。

 「フェミニズムの歴史はトラブルを起こすことの歴史である」というサラ・アーメッドの言葉通り、フェミニズムの実践と理論は、つねに〈トラブル〉を生き、その〈トラブル〉に「触発」され、そして新たな〈トラブル〉を生成する営為であり続けてきた。
 近年、様々な領域で重要度を増している「インターセクショナリティ(交差点性)」という概念は、もともとキンバリー・クレンショーやベル・フックスたちのブラックフェミニズムの文脈から生まれた。フックスは、「第二波フェミニズム」が隆盛した当時、「あたかも『白人中産階級の女性フェミニスト』が語る『女性』が『女性全体』を表象しているかのように〔…〕受け止められていた」ことに対して、フェミニズムそのものに批判を向ける。フックスの理論は、クレンショーの言う「単独の分析枠組み」「シングルイシューにもとづいた分析」に対する批判であり、「『性と人種と階級における抑圧の相互関係』を問題にするインターセクショナルなフェミニズム理論」である(p.131-133)。
 このような差別の複層性・交差性を問題にする議論は、「『(西洋の)フェミニズム』の名の下に『第三世界の女性』が抹消される現実を明らかにした」ポストコロニアル・フェミニズム(p.134)、「性別二元論やジェンダー規範、そして異性愛規範の『交差』を問題にする」バトラーの理論(p.138)から、「ひとかたまりのもの」として隠蔽されているセクシュアル・マイノリティ内部の差異を考察し実践する「クィア理論」(p.139-140)へと、互いに結びつきながら発展していった。
 さらに藤高は、インターセクショナリティの系譜として現在の日本の文脈において火急の課題となるのが、「『トランス』と『フェミニズム』の関係性を考えること」つまり「『トランスフェミニズム』の可能性を考えること」であるという(p.140-141)。現在、フェミニズムの内部においてすらトランス排除的な言説――例えば、トランス女性を「逸脱した男性」とみなし「女性に危害を加えうる性犯罪予備軍のような存在として表象」する(p.141)ような――がとりわけTwitter上で発され、反復されている。しかし、フェミニズムの内部において第二波フェミニズムの頃にはすでに数々の「トランス‐ポジティヴの言説」の試みが存在していたことを見過ごしてはならない(p.145)。したがって、いま求められているのは、「フェミニズム内部の『トランス‐ポジティヴの言説』、あるいはトランスジェンダーによる『トランスフェミニストの言説』を発掘し、引き継ぎ、紡ぎだすこと」によって「抹消されてきたトランスフェミニズムという対抗言説を生み出すこと」である(p.146-147)。※注
 以上のように、インターセクショナリティは「差別の複層性・交差性を考えるために、その『交差点』を生きてきた様々な当事者から生まれた概念である」(p.150)。また、フェミニズムの文脈において考えるならば、インターセクショナリティとは、「交差点」を生きた者たちが「フェミニストとして」(p.150、強調著者)フェミニズムに対して異議を申し立て、フェミニズムを〈トラブル〉に巻き込みながら発展した概念だと言えるだろう。それは、フェミニズムに新たな「出会い」をもたらすことになる。
 アーメッドは、インターセクショナリティに関連した「トランスフェミニズム」に応答して、「シス・レズビアン」「有色人種の女性」「『シス特権』をもった者」であるという自らの位置性に触れながら、彼女が「ハンマーの類縁性」と呼ぶものについて述べる。

アーメッドが「ハンマーの類縁性」と呼ぶものは、ハンマーに打ちのめされる経験、あるいはハンマーで抵抗する政治的行為には、たとえそのハンマーが異なるハンマーであったとして、それらのあいだには「類縁性」があるということだ。言い換えれば、たとえ異なるハンマーで打ちのめされ、あるいは異なるハンマーで抵抗するのであれ、私たちはそれらの「類縁性」を通じて、他者の痛みを想像し、他者とつながることができる。とりわけアーメッドが強調しているのは、そのハンマーに抵抗することで「私たちが通り過ぎることができるものによって妨げられる者たちと触れる」経験をもつということである。

p.148-149、アーメッドの引用は「An Affinity of Hammers」(著者訳)

 性別、人種、経済階級、身体能力、年齢、セクシュアリティ……資本制が敷いた交通路の「交差点」において、差別は複数の方向から起きる。一方で、私たちはアーメッドが言うように「ある人たちにとってハードでありありと経験される壁は、他方の人たちにとっては存在さえしない」という「規範や制度の存在に『気づかないでいられる』」特権を持っている(p.147)。
 さらにアーメッドは、この「ハンマーの類縁性」は、「他者たちに自動的に調和する」ことでは得ることができず、各々の抵抗を通して勝ち取らなければいけないものであることを強調する(p.149)。異なる複数の「交差点」で「轢かれる」ことによって傷を負った者たちが、いかにして「出会う」ことができるのか、いかにして「〈私〉が気づかなかった〈あなた〉という他者に『触れる』」(p.150)ことができるのか。これこそが、インターセクショナリティという概念に「出会い」「触発」されたフェミニズムの理論と実践に賭けられているものだ。
 本書の最終章(第二部・第四章)は「『フェミニズム』に賭けられているもの」と題されている。フェミニズムは、「排除や分裂と裏腹に出現するもの」である「共通性」と、抑圧的な「共通性」に変じてしまう危険性と隣り合わせにある「差異」の問題に絶えず直面してきた(p.192)。「『共通性』と『差異』のあいだの終わりのない往還」の重要性を指摘した竹村和子に宛てられたこの章において、藤高は竹村が「アイデンティティの中断」と呼ぶ倫理的実践について触れている。

竹村の言う「アイデンティティの中断」とは「脱アイデンティティ」ではない。竹村が言うように、「わたしは「何かである」(あるいは「何かではない」)ことによってはじめて、〈わたし〉であることができる。「何者ではない」わたしは、〈わたし〉ではない。だから人は、いつも自分が何かである(何かではない)と語っている――アイデンティティを形成している」のである。しかし、アイデンティティが「何かである」と語ることによって形成されるのであれば、それは「「何か」と語らなかった(語りえなかった)ものに対峙する」プロセスでもある。つまり、「アイデンティティは非-在としてのアイデンティティを、アイデンティティの形成と同時に抱え込む」のだ。

p.192-193、竹村の引用は『愛について』、強調著者

 竹村が言うように、「アイデンティティの中断」とは「私とは誰か」と自分自身に問いかける「内主体的行為」であると同時に、「非-在としてのアイデンティティ」という「内なる他者性」に向き合う「間主体的な行為」である。つまり、それは「自己に応答すること」であると同時に「他者に応答すること」である倫理的実践を意味する(p.193)。それが「現在的で偶発的な実践」であり、かつ「継続的なものである」のは、私(たち)のアイデンティティを固定化してしまえば――例えば「女」「女の同性愛者」「女で有色人の同性愛者」という「共通性」の名称にとどまれば――「差異」の、「他者の歓待」はありえなくなるからだ(p.194)。
 さらに竹村は、「共通性」や「オルタナティヴな普遍」そして「現在」にさえ収束されずに残りつづける「『怒り』という残余」に留まろうとする。「その『怒り』は〔…〕『現在』に収束されないために、語られなかった/語りえない『過去』として残存しつづける」(p.195-196)。

バトラーは『ジェンダー・トラブル』で、「肌の色やセクシュアリティや民族や階級や身体能力についての述部を作り上げようとするフェミニズムのアイデンティティ理論は、そのリストの最後を、いつも困ったように「エトセトラ」という語で締めくくる。修飾語をこのように次から次へと追加することによって、これらの位置はある状況にある主体を説明しようとするが、つねにそれは完全なものにならない」と述べている。このように、「女」とは誰なのかを説明する試みはその「他者」あるいは「無限のエトセトラ」に直面する。

p.17、バトラーの引用は『Gender Trouble』(著者訳)

 上述したインターセクショナリティの系譜を見ても分かる通り、フェミニズムは、つねにバトラーのいう「無限のエトセトラ」に出会う。その「出会い」こそがフェミニズムの実践と理論を駆動させてきたものだ。しかし、どれだけ新たな「普遍」や「共通性」を打ち立て、またその「承認」の枠組みを広げていったとしても、「『現在』には収束されない」そこから零れ落ちる者たちの「『怒り』という残余」が必ず存在する。つねにフェミニズムはこの問題に直面し、この〈トラブル〉を引き受け直してきたのだ。
 アーメッドは「ハンマーの類縁性」が「他者たちに自動的に調和する」ことでは得ることができないものであり、各々の抵抗を通して勝ち取らなければいけないものだということを強調する。それは同時に、竹村の言う「『共通性』と『差異』のあいだの終わりのない往還」としての「アイデンティティの中断」という倫理的実践とも響き合うはずだ。
 「互いに共有しえない闇の、その共有しえないということの重さを共有していくこと」(田中美津、p.162)。それぞれが異なる〈トラブル〉に直面し、異なる傷を被った者たちが、自己のあるいは他者の〈トラブル〉とどのように向き合うことができるのか。そして、異なる傷を被りながらも、どのようにして「出会う」ことができるのか。私たちは、フェミニズムの実践と理論を通じることによって、フェミニズムが提示してきたこの〈トラブル=問い〉の生成過程のただなかに投げ込まれることになる。

※注
藤高は、本書の第二部・第三章「とり乱しを引き受けること」において、「十把一絡げに『性別違和』と呼ばれるもののその内部の多様な差異を〔序列や優劣をつけることなく〕捉える可能性」を「違和連続体」という概念を用いて探求しながら、トランスジェンダーを「性別違和によって有徴化された特殊な存在ではなく、シスジェンダーが無視する違和を引き受ける存在」(p.170、強調著者)として描き出している。藤高が自身の〈違和〉と向き合いながら紡ぎだされる本章は、私たち自身もまた〈違和〉と向き合うことへ誘うような、まさに「トランス‐ポジティヴの言説」を記述する試みと言えるだろう。

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