精神科医・中井久夫による「戦争と平和についての観察」は、主に二十世紀の戦争と、戦時下――戦前・戦後も含む――における人々の心理的動向を分析の対象として、戦争と戦争犯罪がどのようなメカニズムで起こるのかを簡潔かつ精緻に描き出した論考である。いつ読んでも示唆に富む内容であることは言うまでもないが、「いま」読み返したとき、よりいっそうアクチュアルに響く文章をいくつか抜き出してみよう。
引用は『中井久夫集9 日本社会における外傷性ストレス』(みすず書房、2019年)に依拠したが、この論考は森茂起編『埋葬と亡霊』(人文書院、2005年)を初出として、中井久夫『樹をみつめて』(みすず書房、2006年)、『戦争と平和 ある観察』(人文書院、2015年)にも収録されている。
あくまで中井は戦争と当時の情勢、そしてそれらに左右される人々の心理的動向について具体的な分析を重ねながら筆を進めている。ただし、以下の雑然とした引用だけでは、その卓越した分析が少なからず捨象されてしまっていることも念のため断っておく。なお、強調はすべて引用者による。
《戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる》(p.1)
「単純明快な」戦争の語り
戦争と平和は非対称的な概念である。戦争は進行してゆく「過程」であり、一方で平和はゆらぎを持つ「状態」である。《「過程」は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語り》になり、《「状態」は多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがない》ものである(p.2)。
もちろん、背景にある戦争を生み出す力学や、実際の戦場は複雑な様相を呈していることは言うまでもない――そもそも誰が戦場で起こる出来事を「語る」ことができるのか。《酸鼻な局面をほんとうに知るのは死者だけである。「死人に口なし」という単純な事実ほど戦争を可能にしているものはない。戦争そのものは死そのものほど語りえないものかもしれない。》(p.4)――。しかし、情勢を判断する言葉や戦争への動員を促す語りは、しばしば「単純明快」である。
「遠い」戦火の模様をメディアを通して「傍観する」立場にある人々の間にも、この単純明快さが幅を利かしているようだ。また、誰もが抱くであろう《生存者罪悪感》が正常なものだとしても、それが意識的/無意識的に限らず過剰に動員させられうることも見逃してはならない。いったいどの立場の者たち――はっきり指導者と名指せる者とは限らない――がその動員を促そうとするのか、どのような要因で?
《兵士という膨大な雇用が生まれて失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物資のために無際限の需要が生まれて経済界が活性化する。》しかし、そもそも戦争とは失業問題の解消や物資の大量消費(蕩尽)のために行われるものではないか。つまり戦争に向かわせる最大の要因の一つは経済的な問題であり、グローバルな資本の流れがときに大規模な戦争を必要とするのではないか、という疑問も付け足したくなる(以下で見ていくように中井もその点を見落としていない)。
エントロピーと「排泄物」
マキャベリの「国家には時々排泄しなければならないものが溜まる」という言葉を字義通りに受け取らなければならない。ここに「内部のしわよせの場」として挙げられている《かつての帝国主義の植民地、社会主義国の収容所列島、スラム、多くの差別》の問題は、現代において一層紛糾している。正当性のない不均衡、地理的な「外部」にも「内部」にも配置される飛び地。この「内戦」は何らかの形で隠蔽されているようにも見える。しかし、至るところでその破綻が明らかになるときが必ずやって来る。そうして《国家は内部の葛藤や矛盾や対立の排泄のために戦争》を遂行するまでが一続きになる。
「退屈な」平和?
単純明快に語られる「過程」としての戦争に対して、平和は《無際限に続く有為転変の「状態」》であり、《非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い》(p.5)。
日々の生活を送る中でこの「退屈」に身に覚えがない人はいないであろう。平和を語るときでさえ、人を引きつける「物語」は戦争に裏打ちされた「戦争体験」に依拠している。ともすればある意味で「単純明快な」論理に飲み込まれてしまう危うさがある。では、積極的な意味を持った「反戦」の言葉を語るにはどうすればいいのか。
そもそも《無際限に続く有為転変の「状態」》である平和においても、「不正」との闘いは絶えず行われている。一つ前の引用の際に思わず書いた「内戦」という言葉が再び頭に過る。《しばしば国家は内部の葛藤や矛盾や対立の排泄のために戦争を行ってきた》……。平和(とされている「状態」)時において、「不正」を明るみに出すことの重要性は言い過ぎることはない。しかし、積極的な「反戦」の言葉を訴えるためには、進行中の数々の「内戦」と、「内戦」に繋がっていながらかつそれらを「外部」に排泄しようとする戦争と、双方に対して同時に切り返す論理への回路を見つけ出すことが何よりも急務なはずだ。さらにそのためには「自国」だけの問題に留まらず、「敵国(と名指された国)」をはじめ他の国々の「内部」における問題とも何らかの共通性を見つけ出すことが必要になる。
再び「単純明快な」戦争の語り
「国外」で行われている戦争に対してたとえ無力であったとしても、何らかの終戦への道すじを見つけるべく、また同じ過ちを繰り返さぬよう未来のために思考しようと試みる。しかし、その際にも「選択的非注意」が働いていないとは言えない。侵略国(その指導層たち)の愚劣さを批判し続けることは当然だとして、その一方で現在の戦争を促した背景にある錯綜した力学――私たちが加担していないと言えるだろうか?――からも目を反らすことはできないだろう。それを語ろうとすることさえ「どっちもどっち論」と批判されるならば、あとは現在進行形の戦争と、次の戦争への準備を煽るだけに堕しかねない。その時こそ「単純明快な」戦争の論理に平和が利用される。
そして「国家」がやって来る。語られる言葉の主語はつねに「国家の名」になる。「国家(敵)」と「国家(味方)」の戦争? 周辺「国家」の思惑? しかし、戦争に巻き込まれ死に曝されているのは、それぞれの国の住民ひとりひとりの生だ。どうして私たちは「国家」に連帯を表明することができようか?
「安全保障感 security feeling」
この「安全の脅威」こそが次の戦争へと向かう準備と、果ては他国への侵略を正当化する。世紀が変わってもなお、この単純な理屈は何度も繰り返され煽られ続ける。「安全の脅威」を見つけ出し取り締まろうとする動きは、「外部」に対してだけでなく「内部」においてもさらに活発化していく。
「おみこしの熱狂と無責任」
以上いくつかの文章を恣意的に抜き出してみたが、すべて前半部分からの引用に集中している。これらの文章には、戦争の影がちらつきはじめ、やがて来る戦争の準備を整えようとする気運が高まる「戦前」の情勢が活写されている。
文章を引用していて、私は思わず「内戦」という言葉を文脈から逸脱して何度も書いてしまった。しかし、《無際限に続く有為転変の「状態」》と中井がいう「平和」の、一見すると捉えどころのなさの裡には、無数の軋轢の交差と折衝がある。繰り返すが、それらの複雑な様相を覆い隠しながらすべてを外部に放擲しようとするのが「戦争」と呼ばれるものであるならば、「反戦」の理論はこの「内戦」のただ中において、またその関係性において見出さなければならないものではないか。
これまでに、至るところ無数の《曲がり角》があったはずだ。