わたしを出すことが怖かった
物書きの端くれとして仕事をしているが、わたしは自分のことを書くのが怖い。
自分のことを書くのが怖いというより、わたしの内側を知られるのが怖いのだと思う。
ある日書く習慣をつけたくて始めたnoteだったが、いざ自分の身の回りにある出来ごとを書こうとしたら全く筆が進まなくて愕然とした。
今から数年前のできごとだったけれど、あの時の行きどころのない気持ちを抱いた、地に足がついてないなんとも浮遊した体の感覚は今でも記憶にびったりと張りついている。
その感情は悲しみというか、憤りというか、なんというかはわからない。
書く仕事をしていても手が進まないことがあるのか……。まるでわたしが透けていて、この世と見えない世界を行き来する、半分存在していない人間のようにも思えた。
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人の話を聴き、それを文章にすることが好きだ。
話した方が伝えるテーマを掬い上げ、書き手のわたしが伝えたい疑問や問いと共にまとめて、記事を読むであろう誰かに届ける。
話し手は私ではないが、私の疑問や問いを織り交ぜながら読み手との対話ができることが楽しい。
その事実だけをそのまま受け取れば違和感はない。
ただ俯瞰して捉えてみれば、わたしは自分のことを書いたり表したりすることが苦手だからインタビューがより楽しく、インタビューに傾倒していっていたのではないかと気づいたのである。
けれど、本当にそうなのか。
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昨年初めて自分でZINEを制作した。実に8年ぶりのことだった。
自分のことを書いたエッセイで1冊作り上げる自信はなかったので、大きなテーマをもうけながらインタビューや対談記事をメインに、自分のことを書いたエッセイもそっと置いた。まるでおまけのように。
ZINEはありがたいことに、100人以上の方のもとに渡った。
テーマをもとに渾身の対談とインタビューをし、たくさんの感想をいただいたが、それ以上に感想を寄せてくれたのが、件のおまけエッセイだった。
驚いた。おまけのようにそっと置いたエッセイだというのになせだ、と。
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もちろん文章として出すからには、読まれることを多少は意識して書いている。主観ばちばちの文章というよりは少しよそゆきな顔立ちに整えてはいた。
エッセイは究極の心身解放だとわたしは捉えている。簡単には書けない。
自己開示の扉に硬い鍵がかかっているわたしにとってはなおのことだ。
ただ、普段のわたしだったら人にはあまり話さないだろうというじっとりジクジクした古傷のような話を書いていた。さらりと澄ました顔して、おそるおそると。
こんな話でも、人は共感するのか。やわらかであたたかいふわふわの手をさし述べられた。その触り心地にホッとした気持ちを抱いた。
ああ、わたしの内側をひらいても良い。何も怖いことはないのだ、と。
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うまい下手かなんてわからない。そんなことはどうでもよい。
だってこれは仕事ではないのだ。誰が評価を下す?
他でもない、私が私を縛っていたのだ。
それから、わたしは時折自分のことを書くようになった。私は私をさらけ出すことで、誰かとつながれることが嬉しかった。
同時に新たな魅力を見つけた。
書いた出来ごとや事実から離れて、今この場で書いているわたしがどう感じるかと考えるようになった。
書きながら俯瞰して感情を発見する旅。
今もまだわたしを出すことは怖い。
でも時を経て、わたしを出すことは悪くはないなぁと感じる。
対岸の向こうにある怖くない岸辺にたどりつくべく、私は確かめるように泳いでいきたい。
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