♯リーダーはさみしい
のほほんと生きて暮らして25年が経ちました。
1/4世紀。あっという間だ。
こんなにのほほんと生きている私でも、
ことの流れや雰囲気で、チームや組織のリーダーになることがある。
高校の部活(バトミントン)と大学のゼミ、
私の所謂リーダー経験はこの2つ。
高校の部活は、部長会議なるものが月に1度くらいあるんだけど、
数ヶ月経ったある日の部長会議で、他の部活の部長に、
「え、部長だったの!?」
と驚かれる影の薄さと部長「らしくなさ」。
(大学の時も確か学部でゼミ長LINEグループがあったけど、そういうの苦手で影を潜めていた)
いまさら過去のことをどうこう言うつもりはないんだけど、
リーダーを経験して、一番私の心をギュッとさせた感覚は、感情は、
「さみしい」だった。
さみしい、と言うか、どうしようもない孤独な気持ち。
自分の考えた練習メニュー、メンバーが遅刻をしたりミスをした時に自分がかける言葉。そういう一つ一つの自分の取捨選択のエフェクトに対する怖さみたいなものもあったんだと思う。
「失敗してもいい」ってみんな言う。よくインタビュー記事の見出しとかにもなってる。私も思う、失敗してもいいし、失敗なんて存在しない。
でもでも、「絶対に失敗できないチョイス」ってある。色んな人の期待とか想いがあって、何が正解かなんて全く分からないけど、とにかく、私が今ミスったら全部終わる。「絶対なんて絶対ない」なんて言葉嘘だよ、だってこれは絶対正解しないとダメじゃん!みたいな瞬間。
そういうチョイスを自分がしなきゃいけないときの、
あの孤独感はなんなんだろう。
崖の前に自分が一人で立っているような、目の前が見えない感じ。
でもいつだって、側で助けてくれる人はいて、「味方だよ」と言葉にしてくれる人がいて、それに心底救われてきたけど、さみしい感覚がなくなることはなくて、それは何か悪いことのようで、さみしさに気づかないフリをしていた。
だから、あの日研究室でゼミの先生が言った、
「リーダーは孤独なものですよ、そういうものなんです」
は私を全肯定する言葉だった。
同時に一人で学生を指導する先生の、私よりも何十倍も大きいであろう孤独も感じた。
「なんだ、さみしくていいんじゃん」
***
今、世界で新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、
世界各国のリーダーが、どの方向に舵を切るか、
今この時も判断に迫られている。
私たちは自分の国の首相や知事に
「失敗してもいいよ」
なんて言えるだろうか。
未曾有の事態と言われ、誰も未来を予測出来ない、そんな中で、
彼らは正しい判断や説明を常に要求される。
マスメディアで切り取られる姿はほんの一瞬で、
「日本の未来はどうなるんだ」
「東京を救って」
なんて無責任で他力本願な言葉を投げられ続けるのだ。
「責任のある立場にいる人だから」
「私たちの税金で働いているんだから」
そんな一言で済ませられるような重圧なんだろうか。
***
多分トップに立つ人ってみんなさみしい。
社会人になってからも何となく感じた。
だって目に見えないことの方が多いんだもん。でもその目に見えないことの方がずっと大事なんだもん。
だから、自分がリーダーでないときは、
出来るだけ自分の情熱やそこにコミットしようとする気持ちが形になるような言葉や行動をすることが、応援、ううん、伴走なんじゃないかなあって思うのでありました。
応援も嬉しいけど、一緒に走ってくれる人の方がもっと嬉しい。