伝承の日本史5 〜徐福の再来日、物部の郷

秦に帰国したホアカリ(徐福)はBC210年ころ、少年少女3000人と熟練工を連れて再渡来した。
肥前国北部から西海をめぐり、有明海に入り、筑後川下流の浮盃(ふばい)に上陸。
饒速日を名乗った。
丹波国でカゴヤマの父・ホアカリとして知られているため、先代旧事本紀で「天火明櫛玉饒速日」として1人の名前にしている。


徐福集団の子孫は筑後川流域に、さらに九州各地に勢力を伸ばした。
2回合わせて5000人以上の若い男女を連れてきた。BC3世紀末でその数だから、以降の人口に大きく影響している。

その頃の勢力圏を筑蓁(ちくしん)国と称したので、のちに筑紫国になった。吉野ヶ里に住んだ。筑紫は3世紀まで物部王国だった。
吉野ヶ里にはBC1世紀の遺跡が多い。邪馬台国より500年ほど以前のもの。

「魏書」に伊都国の長官「爾支(にぎ)」の名があることから、先祖ニギハヤヒの「にぎ」を使ったと考えられる。

北九州の集団は先住の出雲族と混血して勢力拡大した。その中心豪族が物部氏。物部は筑後方面の豪族のトップで、銅矛や銅戈を鋳造して豪族に配った。
また祭祀用の広型銅矛を使い、北九州や西四国に配った。

出雲荒神谷遺跡の細形銅剣と銅矛の一部は吉野ヶ里で作られたらしい。
北九州に多く見られる大型銅矛は物部王国の象徴。

佐賀県三根郡は物部の重要な旧跡だったことは奈良時代まで知られていたが、記紀に記されなかったため忘れ去られた。

トヨミケカシキヤ姫(推古)大王は蘇我氏の血筋。蘇我が物部宗家を滅ぼしたことを気にしていた。

肥前国風土記の記載。
「三根郡物部郷に神の社があり、神の名を物部経津主神という。以前、オリハダ宮でトヨミケカシキヤ姫大王(推古)が来目(くめ)皇子を将軍として新羅を討伐させた。その時皇子は筑紫に来て、物部の若宮部を遣わしてこの村に社をたて、その紙を鎮め祀らせた」

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