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賀茂氏と「暦」に関するメモ(1)

三嶋大社と三嶋暦


昨日、三嶋大社に行きました。と言っても、わたしの関心は「三嶋暦」一点。大社の裏に「暦師の館」という、細々とした資料館があり、初めて訪れたのが2013年なのでほぼ10年ぶり。

三嶋暦とは

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9A%A6

wiki読むだけで、ややこしいことがさらっと書かれているのでちょっと説明します。

そもそも、暦っていうのは、複雑な天文学的知識に基づく潮の満ち欠けや日照時間を算出するところから、海では漁や航海、地では種まきや稲刈りといった生活の基盤となる事柄を司る大切な知恵。当然、星読み、五行なども併せて今でいう占い的なものも含めて、日々の吉凶が掲示されたものが「暦」であります。
武士の時代には戦をするのに「吉方位」も加味したことから、現代の感覚でいう単なるカレンダーではなく、人生の全てを左右するといったたいそうなもの。
つまり暦師っていうのはすなわち陰陽師と言って良い。


伊豆半島とはすなわち賀茂氏

三島暦(みしまごよみ)とは、応仁文明室町時代)頃から1872年(明治5年)まで伊豆の有力者である河合家が作成して、三嶋大社より一般に頒布されたである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9A%A6

とありますが、では河合家とは何かというと、家伝では、山城賀茂、要するに「賀茂氏」であります。

実際、伊豆という土地は賀茂氏であります。現在では伊豆半島の南側が「賀茂郡」ということになってるわけですが。

ただ、ややこしいのが「賀茂氏」理解のためには、天神系と地祇系の賀茂がある、、、ということを頭のどこかに入れておかなくてはいけません。

三嶋大社はどこからきたのか

奈良時代宝亀年間頃に、奈良から河合家の先祖が山城賀茂より三島明神(現、三嶋大社)を勧請して、三島に移住し、を作り始める。鎌倉時代まで関八州で用いられた[注釈 1]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9A%A6

奈良の河合家が、山城賀茂から「三島明神」を持ってきたのが現在の三島大社ってことが書いてある。

ということは、奈良の河合家というのは葛城賀茂(地祇系)のことなのか?この系統がのちに陰陽道を確立すら賀茂忠行につながるわけだから。

平安時代中期には陰陽頭賀茂忠行賀茂保憲父子を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道宗家となり、子孫は暦道を伝えた。賀茂忠行の子には儒学者に転じた慶滋保胤、保憲の子には家学の暦道を継いだ賀茂光栄がいる。
室町時代には、嫡流勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代から江戸時代初期にかけて断絶した[注 5]。なお、庶流幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福陰陽道宗家の地位を奪われ、江戸時代中期以降は陰陽寮の次官にあたる陰陽助を務めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F


でも摂津「三島鴨神社」では、摂津から大三島と伊豆に分かれたと言ってる。

摂津御島の三島社を分社して、伊豫越知郡に「大山祇社」、伊豆賀茂郡に「三島神社」ができ、日本三三島として崇敬されはじめる

https://www.eonet.ne.jp/~mishimakamo/rekishi/rekishi.html


ここでこの「三島」と「賀茂」の関係がわけがわからなくなってくるが、その件はまた後日。

とりあえず進めると、とにかく

江戸時代毎年12月15日に江戸城本丸西丸寺社奉行に三島暦を献納後、相模伊豆の2ヶ国で一般に頒布した。京都陰陽頭の土御門家は使者を三島宿に派遣し、京都の暦と交換していた。(当時の暦の作成は伊勢京都奈良会津・三島の5ヶ所。)三島の「御暦師」の河合家の庭の一角に、暦算のために天文台が造られた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9A%A6

とあり、三嶋暦は江戸城ほか、伊豆と相模国で流通していた訳だが、

1872年(明治5年)に暦法が改正され、太陽暦に基づいた伊勢暦が作られ、各種の私暦は禁止された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E6%9A%A6

日本各地で独自の暦が作られていたことは、縦に長く南北差の激しい日本列島での生活にとっては、ごく自然なこと、理に適ったことだったのではないか?

グレゴリオ暦の導入により、日本固有の繊細な叡智が失われた

日本の生活風土に合った太陰太陽暦から全世界統一の「カレンダー」に切り替えられたことにより、わたしたちから失われていったもの、それは自然と調和して暮らす知恵や、雨に名前をつける感性といった、非常に尊い叡智だったのではないか。



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りーかお総研〜人体とエネルギー総合研究所
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