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一生の宝物、ニカラグア勤務(ODA担当)

ヴィッパーサナ瞑想修行に行く

2007年春、MBAコースが終わり、外交官として私の最初の赴任地が決まりました。それは、ニカラグア。中南米でハイチに次ぐ最貧国です。私が通ったビジネススクールESADEのクラスメートにニカラグア人がいたので、どんな国なのか聞きました。

「内戦が終わったばかりで、市民が持っていた武器を今、政府が回収しているところだ。」

!!!! スペインでかつて1度、鬱になった経験がある私は、これは準備して臨もうとあることを決行しました。それは、瞑想修行です。

バルセロナの郊外にヴィッパーサナ瞑想が学べる道場があり、そこで10日間、ひたすら瞑想の訓練をしました。何が最も苦しかったかというとまぶたの痛さ!寝る時間と瞑想している時間は目を閉じているので、一日のほとんどの時間を目をぶっていることになります。すると目を閉じると目が痛くなるんです。これはかなり不思議な体験でした。

一緒に修行した人たちは、アーティストやヒッピーの方が多かったですが、彼らはニルバーナを経験し、幸せそう。一方の私は、雑念だらけでニルバーナのニの字の感覚もない。瞑想をマスターした感は皆無でしたが、今も瞑想はできる範囲で続けています。

水電気のない生活

ニカラグアに赴任した当時、国は計画停電をしていて、一日のうち8時間は、電気がありませんでした。週ごとに午前、午後、夜と停電時間が変わります。日中は大使館で仕事なので、停電していても構わないのですが、夜が停電の週は、辛い。家に帰っても電気がない。電気がないと水もでないんです。

瞑想、暗闇ヨガで時間を過ごしたり、どうしても時間を持て余す時は、発電機があるショッピングモールに行って、ニカラグアのビールを飲んでました。

この経験は私にとっては宝物で、(ニカラグアには失礼ですが)どんな国でも住めるという自信がつきました。そして、水と電気のありがたさを痛感しました。

思う存分活躍、国際協力の仕事

生活環境はチャレンジングでしたが、大使館での仕事はとても楽しかったです。念願の国際協力(ODA)の仕事が担当でした。ニカラグアは、中南米最貧国の一つなので、無償資金協力の対象国で、橋や病院を作るといったような大型のプロジェクトができました。私の担当は、もう少し規模の小さいスキームの担当でしたが、それでも道路の整備や地雷除去支援といった億単位の支援の管理をしました。

皆さんの税金を使っているので、1円も無駄にしてはいけないと、なぜこの工費にこのコストがかかるかなど勉強しました。日本の道路がいかに素晴らしく作られているかもよくわかりました。

私がもう一つ任されていたのが、国際協調です。日本のみならず、欧米の主要国がニカラグアに支援を行っていたので、支援が重複しないように、どの国がどの分野の支援を行うかをニカラグア政府とドナー国・機関で調整していました。私はその調整の担当でした。そこで、各国の外交官や国連、世銀の方と仲良くなり、プライベートでも遊ぶようになりました。

首都マナグアには娯楽はほとんどないので、こういった人たちと家でホームパーティーをすることが多く、今日は、アジアンナイトといった、各自、アジア料理を作って持ち寄ったりして、生活を楽しむにようにしていました。

また、このネットワークのおかげで、ニカラグアに赴任している国連の人たちとつながれ、日本が国連に拠出している人間の安全保障基金を使ったプロジェクトを一緒に企画、立ち上げることもできました。4億円を超える規模のプロジェクトで、当時の私にしたら大規模なプロジェクトです。ユニセフや国連人口基金やUNDPの代表を大使館に招いて、提案しました。ニカラグアで会議をするときは、お菓子は必須。私は自腹でお菓子を買い、お菓子を食べてもらいながら(笑)、私の働きかけを聞いてもらい、やろう!と言ってもらえることができました。私の外交官の実績として大きな自信につながりました。

https://www.un.org/humansecurity/hsprogramme/reduction-of-human-insecurity-in-alto-wanke-bocay-nicaragua-an-integrated-multi-sectoral-and-intercultural-human-security-intervention/

職業人生で最もうれしかった出来事

ニカラグア赴任が終わってから、既に13年以上経ちますが、今でも私の職業人生で最もうれしかったことがニカラグアでのあるエピソードです。それは、当時、大使館の秘書業務に空きが出て、そのポストに大使館で既に働いていたニカラグアの女性が就けたことです。

彼女はそれまで主に清掃の仕事をしていました。秘書業務は、ある一定以上学歴を持っていないと採用されるのが難しいのですが、私は彼女を推薦したんです。彼女は、家が裕福ではなく、早くに結婚し、お子さんもいたので、確か中学までしか行っていなかったと思います。でも、勉強熱心で、家で勉強を続けていました。そして、仕事も真面目でやる気があり、彼女にコピーを頼むと完璧に仕上げてくれていました。

そんな彼女にチャンスを上げたいと思い、彼女を推薦し、とても理解力があり、人格も素晴らしい上司のおかげで、見事彼女は、秘書の仕事につけたんです。

清掃の仕事から、秘書業務の仕事に変わった初日。彼女は、これまでの清掃用の作業服ではなく、スーツを着て、とても誇らしげにデスクについていました。彼女からしたら、スーツ代は大金だったと思います。それでも、それを買った彼女の想いと、秘書をしていることに誇りを感じている彼女の姿に私はとても感激して、今でもその光景を思い出すと涙がでます。

全ての人が誇りを持てる仕事についてもらいたい、私の天職研究の原点はこの思いから来ています。

体の不調でオルタナティブに

大使を始め、大使館にいた方は皆様とても良い方ばかりで、大使館での仕事はとても充実していました。大使や上司には心から感謝しています。その他の国の外交官や国連の人たちとも仲良くなり、公私ともに充実していたのですが、慣れない途上国での生活で、無意識に体にも心にもストレスがかかっていて、体のあちこちに不調がでました。

17歳の時から発症した原因不明の膝の痛みが悪化し、日本に帰国して手術を受けたり、乳がんの疑いがあると診断され、日本で精密検査を受けたりしました。

精密検査を待つ間、何かポジティブになれることをしたいと思い、半断食やビーガンの生活に挑戦してみました。体重がかなり落ち、ふくよかなニカラグア人からみたら、私の細さは異常に映ったようで、セニョリータサトウ(スペイン語で「佐藤さん」)は拒食症を患っていると言われました。

幸い、がんではありませんでした。その後は、反動で肉も食べたい、ワインも飲みたい、スイーツも食べたいと、あっさりビーガンをやめ、体重も戻りました。

今も思いますが、病は気からで、病気になった時に最も重要なのは笑う事、病気のことを忘れている事だと思います。

まとめ(マンゴー一生分、どこでも生きていける。大切なもの)

わずか2年のニカラグアでの生活でしたが、貧困とは何か、人間にとって最も必要なものは何かを体験で学べたとても濃い2年間でした。ニカラグアのあちらこちらになっているマンゴーを思う存分食べられたのも、とてもうれしい経験でした。

この2年は私にとって人生の宝物です。大使館員として赴任したので、かなり守られた環境ではあったので、大げさに聞こえるかもしれませんが、ニカラグアで2年間、水電気なしの生活を楽しめたことが、今、海外で生活をする上で大きな自信になっています。



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