追悼・小澤庄一さん
私が勝手に心の師と思う人が何人かいる。
その一人が、小澤庄一さんだった。
彼との出会いは、学生時代の研究室の先生に紹介してもらって出会ったのが最初で、確か2007年だったように思う。もう14年も前だ。
私はその時、郡上の石徹白という土地に出会い、惚れ込んで、移住をしたいと思っていた。この土地の歴史や文化をベースにした暮らしをしたくて、それを実現するためにどうしたらいいのか、考え始めた時に、先生に相談を持ちかけた。
「地域文化を生かした地域づくりをしている人に会いたいのですが、どなたかご存知ですか?」と。
そうしたら、愛知県の足助という地域で、助役などをやって観光カリスマとなった小澤庄一さんを紹介してくださった。
その時岐阜市に住んでいた私は、車を飛ばして、初めて足助を訪れ、その時、足助観光協会の会長さん(だったかな?引退されていたかな?)だった小澤さんにお会いした。
「俺は、この農村がT社の金にまみれていくのを見てきた。里山文化を残したくて、足助屋敷を作ったけど、これがよかったかよくわからん。お前みたいな若いもんが、郡上の山奥で何をしようと思っとるんや。」
彼は、地域の文化をベースにして、地域の雇用を生み出すとともに、文化保全に尽力をして、観光カリスマとなった。その功績は大きなもので、今も彼のしてきた事業は継続し、そこここに見てとれる。
そんな小澤さんは、しかしながら、経済の波にさらわれていく農山村の若者たちの流出を止められず、結局は、野山は荒れ果て、文化は失われ、自分のしてきたことを肯定的に捉えられず、私にもいつも問うてきた。
でも、その眼差しは温かく、「お前はお前の道をゆけ」と常に励ましてくれた。私が移住した後、石徹白にも2度、3度と足を運んでくださった。
戦後の時代の変わり目の中働いてきた彼は、さらなる時代の変わり目である今、どういう風に人々の心と行動が変わっていくか、私の行動も含めて、眺めていたのかもしれない。
そうとはいえ、私はきっと、彼の期待するようなことを形にするまでにはまだまだ至っていなくて、どうやって農山村が文化を継承・あるいは創造しながら持続していくことができるのか、という答えを提示することはできずにいる。
彼への恩返しとしても、私はそれを目指して続けて行きたいし、彼の思いを引き継いでいきたい。
会うたびに、お尻やおっぱいを触るエッチな小澤さんだったけど(この話は有名で、年齢問わず女性であれば出会い頭に誰でも触られたことはあると思う。笑)、しかも、おしっこは必ず立ちションでトイレに行かない人だったけど、、、
彼が真剣に目指してきたことは、今の日本全体にとってなくてはならないことで、私は若い頃から信念を持って貫いてきた一人の男性と、こうして直接出会って、話をして、刺激を受けることができたことが、何よりの宝物であり、私の糧になっていると思う。
このご縁をくださった学生時代のW先生に心から感謝している。
人は人によって動く。人は人の存在によって存在する。それをさらに強く感じた。
小澤さん、心からご冥福をお祈りします。あの世で、いつか、お会いしましょう。何かいいご報告ができるように、私も楽しく頑張ります。