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森鴎外と尾竹紅吉

森鴎外が様々な女性作家を支援したことは有名であるが奈良県出身の人間国宝の一人として有名な富本憲吉の妻、尾竹紅吉(富本一枝)もその一人である。

富本憲吉と紅吉
富本憲吉 赤地金銀彩羊歯模様 蓋付飾壺(奈良県立美術館)


尾竹紅吉は平塚雷鳥とともに青鞜に参加した人物として知られているが、1912年青鞜を退社し、1914年に富本憲吉と結婚後、「『番紅花』(さふらん)」を創刊した。
森鴎外はサフランにこのような文章を寄せている。
「私は子供の時から本が好だと云われた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波いわやさざなみ君のお伽話とぎばなしもない時代に生れたので、お祖母さまがおよめ入の時に持って来られたと云う百人一首やら、お祖父が義太夫を語られた時の記念に残っている浄瑠璃本やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見ていて、凧たこと云うものを揚げない、独楽こまと云うものを廻さない。隣家の子供との間に何等の心的接触も成り立たない。そこでいよいよ本に読み耽ふけって、器に塵ちりの附くように、いろいろの物の名が記憶に残る(中略)大抵の物の名がそうである。植物の名もそうである。」
そして最後にサフランへの思い出へとつながるのであるが、
「宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。(尾竹一枝君のために。)」
<参考:サフラン 森鴎外>

森鴎外の尾竹紅吉への温かな言葉と、鴎外の孤独な少年時代の様子の対比が興味深い。鴎外は樋口一葉など様々な女性作家を支援したが、その根底には“何等の心的接触も成り立たない”孤独な少年時代の思い出があったのかもしれない。

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