私の不育症歴③ 世界が180度変わった死産という現実(3)


人生観、死生観、価値観、人間関係、ありとあらゆるものが180度変わった死産経験(1)死産経験(2)からの続きです。


1.娘にとって「死」をどう伝えるか


赤ちゃんの誕生を楽しみにしていた娘は、私の入院日、
「赤ちゃんとバイバイしたの。だから保育園行くの」と言って、病院には来ず、保育園に行きました。


小さいながら悲しみを抱えてしまったのか、ただ素直(バイバイした)に言っただけなのか、本心なのかは正直わかりませんが、無意識に無理をさせてしまったのだろうと、思っています。


そんな娘にとって初めての「死」。まだ3歳なる前。
わからないなりに、どう伝えるか、どうしたら理解できるのか、夫が悩み、入院中にある絵本を買ってきて、娘に読み聞かせをしたそうです。


「葉っぱのフレディーいのちの旅ー」

この絵本は、葉っぱの一生を通して命の循環を描いたお話です。春に生まれ、夏に大きく成長し、秋に紅葉となって、冬には枯れゆく、そして春には新たな命の営みが始まる、そのようにして命が巡り巡っていくことを優しく語りかけてくるような物語です。
なぜ自分が生まれてきたのか、何のために生きているのか、そしてなぜ死ぬのか、誰もが抱く疑問を葉っぱの一生を通して描き、人生を考えるきっかけを与えてくれる絵本です。絵と写真で物語を綴ります。

葉っぱのフレディ いのちの旅

当時の娘は難しかったようですが、春~冬にかけ、自然という移り変わりを通じ、生命は変化すること、誰一人同じではないこと。そんな世界を少し触れる機会になったようです。

とても素敵な絵本です。


2.帝王切開既往歴の死産というお産


2015年3月30日。入院しました。
娘が帝王切開だったので、今回も帝王切開をするか、普通分娩するか、ということを検討しなくてはなりません。
帝王切開だと2回お腹を切ることになり、次の妊娠のリスクがかなり上がることから、普通分娩を勧めたいと言われました。


そして、「産声のないお産」という心身の負担を考え、出産時は麻酔を使います、とのこと。
ただし、眠る=いきまない分、多少引っ張りださないといけないこと、そして、死産から時間が経っていることから赤ちゃんの見た目がどうなるか、正直わからない。そこは覚悟して欲しい、とも言われました。

帝王切開でも良い、とも言われましたが、今後のリスクは最小限にしたい、そして何より、この子と過ごす時間が少し伸ばすことができる。と思い、普通分娩を選択しました。


普通分娩をするとなると、子宮口を広げなくてはいけまん。
流産同様、ラミナリアを数日かけて何十本と入れていきます、痛みとの戦いです。産声が聞ける、未来があるなら、痛みも頑張れますが、本当に悲しく、苦痛な処置時間です。


ちゃんと産んで、ちゃんと会いたい。
入院中、ひたすらお腹に話しかけていたこと。
それ以外はほとんど覚えていません。


ただ、見舞いにきていた実母から「なんでこんなことになっちゃうの」と言われたことはことはハッキリ覚えています。
それを横で聞いた父は瞬時に母を止めていました。
そんなの、私が聞きたいし、知りたい。いい加減にしてよ。

この死産を境に、元々苦手だった母とはかなり溝が深まりました。
そんな私と母の距離を保ちながら、私寄りにさりげなくフォローしてくれていた父には何より感謝しています。


3.姉弟の誕生日、4月2日


「明日生まれるかな」と言われたのは、4月1日。
真っ先に思ったのが娘と同じ誕生日ということ。

あぁ、そうか。
私が一生悲しまなくて良いように、一生笑顔でいられるように、お姉ちゃんと同じ日に生まれてこようとしているんだね。
と、息子なりの心遣いを感じました。それだけでなんて男前なんだろうと。


子宮口が開き、陣痛抑制剤からの陣痛もピークに。
分娩室に行き、いよいよお産、というタイミングで、私は眠りにつきました。


2015年4月2日。
午後12時45分 39cm 1285g
産声のない、男の子を出産しました。



次に起きたときには病室のベッドでした。
夫が起きたことを伝えると、院長先生と看護師さんが、赤ちゃんを連れてきてくれました。
赤ちゃん特有のふわふわした柔らかい温かさはなく、冷たく、皮膚も痛々しく、死んでしまっているという現実を突きつけられる対面でした。


心配していた、赤ちゃんの状態ですが、院長先生がものすごく丁寧に赤ちゃんを取り出してくれたそうです。
死産から時間が経過していた故、皮膚の状態など、全くきれいなとは言えませんでしたが、先生から覚悟して欲しい、と言われたような不安な状態ではなく、先生に感謝の気持ちでいっぱいでした。

病院が母子別室だったこともあり、会う時は看護師さんに毎回お願いをして連れてきてもらわなくてはなりません。
でも、会いたい・抱っこしたいと何回も言ってはいけない気がしてしまい、看護師さんへの忙しさからの申し訳なさも出てしまい、赤ちゃんに会うのをためらってしてしまっていました。

死産したことが悪いこと、と感じていたのだと思います。


家族が帰り、病室に一人になった時、ゆっくり息子に会いたくて、もう一度だけ連れてきてもらいました。
そっと抱っこした息子は、しっかり大きくなっていて、鼻の形は夫と娘に、口の形は私にそっくりでとてもかわいかったです。
でも、「こんな姿にしてしまって、ごめんね、ごめんね」という気持ちの方が大きかったです。



もっともっと会いたかった。
もっともっと抱してあげればよかった。
もっとほっぺをくっつければよかった。
手形・足形を取りたかった。
洋服を作ってあげればよかった。

元気に生まれた赤ちゃんと同じことを沢山しておけばよかった。



限られた赤ちゃんとの時間、思い出を残したり、沐浴させてくれたり、病院によってずいぶん違うことを後から知りました。

私は病院からは何も言われず、対面だけ。
ネットで検索するば色々出てきただろうに、こういうものなのかと、残せたものはたった2枚の写真だけ。
子が生まれた痕跡をもっと残さなかったことを、とても後悔しています。


そして、その日の夕方、保育園から病院に来てくれた娘の誕生日を祝うべく、母が買ってきたケーキでお祝いをしました。

娘の前では、泣かない、笑顔でいる。
その通り、泣かずにいられたのは、4月2日に生まれてくれた、息子のおかげでもある、と思っています。


娘は死産した赤ちゃんと対面はしていません。
必ずしもきれいな状態で会えるわけではなく、怖がってしまう可能性もあること。何より「死」を理解できていないこと。
なので、対面はせず、ある程度大きくなってから、写真を見たい、という娘のタイミングで、初めて「弟」の写真を見せ、話をしました。


9歳になった娘は、生まれたら、いつかは命は亡くなってしまうことを理解しています。だから毎日を大切にね、とも伝えています。

我が家は、普段の会話で時々お空の子達の話が出ます。
娘からは、「お空の子達って産まれてたら今は何歳?」と聞いてくることもあります。

娘には普通に家族の一員になっている。
姿・形はありませんが、違う形で娘の中に「生きている」ということがとても嬉しいです。

そんな風に育ち、そんな会話が幸せに感じられるようになりました。



(4)に続きます。


****Kao****


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