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「わからない」で終わらせない

物事を深掘りするって、私はとても大切だと思います。私は何でも知っている博識を持った人間ではありませんので、わからないことが本当に多いです。ですがわからないことがあるというのは、それを学ぶことが出来るという証ですので、この歳になってもまだまだ学べるというのは、とてもありがたい話ではないかなと思っています。しかし世の中には興味があっても勉強はしないという人って意外にも多くいます。勉強はしないと言ったら語弊になるかもしれません。正確に言うと、


「わからない」で勉強を終わらせるもったいない人が多いということでしょうかね。



確かにものによっては理解が難しいことがあるかもしれません。そもそも知らないのか、意味がわからないのか。わからないでも様々な意味があるわけです。「わからない」で勉強を終わらせる人って、そのわからないという意味をきちんと把握していないんですよね。全く聴いたことないことであるならば、その聴いたことない言葉を調べれば良い。書いてある内容がわからないとするならば、その内容の基礎にたち帰れば良い。なんで勉強のかといえば、


「わからない」から「知らない」から勉強するわけです。



「わからない」から勉強を終わらせるというのは、それは勉強ではなく、単なる知識の習得なだけであり、その習得した内容がわからずに、そこで勉強を終わらせてしまうというなんとももったいないことをしているだけです。わからないことがあるというのは決して恥ずかしいことではありません。前述した通りに学べることがあるというのは、とても幸せなことです。勉強を有意義にする大事な要素として、「知的正直さ」というのがあります。その意味は、


インプットした情報に対して、「自分は本当に理解したのかを自問自答すること」です。



学んだことに対して、何を理解していて何が理解できていないのか。ようは「わからない」で終わらせるのではなく、「なにが」「どこが」というのがきちんと説明できて、はじめて勉強したことになります。これは勉強だけではなく全てにおいて言えるのですが、停滞からは何も生まれません。もちろん考えるには時間が必要です。その考える時間によって物事が停滞することはあるかもしれません。しかしそれは考えていることによるものであり、


考えているということは、物事は進んでいるわけです。



わからないで済ますのは簡単です。ですがそこから進まないのは、時間を無駄に捨てているのと同じです。せっかく貴重な時間を使って勉強しようとしているのなら、わからないながらも、なぜわからないのか。どこがわからないのか。どうすればわかるようになるのかくらいは考え続けないといけないのではないのかなと思います。


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