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売られた喧嘩は倍返しです

人には様々な考え方があるものですから、その考えの中には自分には合わないというものもあるでしょう。別に合わないからと言っても、それは関わらなければいいだけの話で、自分と考え方が違うんだなと思っていればいいだけの話です。しかし変な正義感なのか、自分の考え方の正当性を主張したいのか、自分と考え方が違う場合に、わざわざ「自分は違う」ということを教えてくれる人もいます。私としては「そういう考え方もあるんだなぁ」と思うのですが、



それ以上でもそれ以下でもありません。



中には意見の違いを否定と捉えてしまって、それを本気で反論する人もいるでしょう。ですが私はしっかりと様々な知識を吸収して、それを勉強して、その結果として自分の考えとして出しているので、他の方が何をどのように捉えようが、私には関係がありません。もちろんしっかりとした正解のある問題において、自分の答えが違うのであれば、自分の考えを正しますが、答えのないいわゆる自分の意見というのは、絶対正しいということではなく、


絶対の自信は持っています。



その自信というのは、根拠のない自信ではなく、しっかりとそこに時間を割いて自分なりの責任と覚悟を持って発しているものです。勘違いしてほしくないのは、「だから自分は正しい」と言いたいわけではありません。あくまでも自分の中でしっかりと確証を持っている答えだと言いたいだけです。
どうも世の中には、そういう否定批判をするのが格好いいと思っている人もいるようです。こういう勘違いをしている人の傾向として、


その否定批判に悪意があるんです。



人の意見というのは、そこに重みがあるんです。何も考えていないで思ったことを口に出すのも意見。時間をかけてしっかりと考え抜いてから口に出すのも意見。しかしその意見には重みが違うわけです。特に文字にその重みを察知できる能力がある人なんて、本当に少人数ですので、その能力を習得しろよなんてことは言えないのですが、頭の中に叩き込まないといけないのは、


牙を向かれても知らんぞって話なんです。



否定批判というのは、それをされた人から見たら「喧嘩を売られた」になるんです。前述した通りしっかりと考えて、その言葉に重みを持った意見を否定されたとするならば、なおさらその気持は強くなります。そういう状況になった時には、牙を向かれても何も言えない話で、そんなつもりはなかったとしても後の祭りなわけです。
私は基本的にはドSなので、こういう状況というのは大好物です。自分から喧嘩を売ることはもちろんしませんが、売られた喧嘩を買うのは、本当に大好きです。打ってきたの相手ですから、


完膚なきままに叩き潰します。



普段噛みつかない人が、本気になって噛みつくと、手加減は知りませんので全力になります。もちろん頭のいい人はそんなことはしないと思いますが、久々に頭の悪い人が私の前に現れたので、楽しみで仕方なく、よだれを垂らしながら罠を仕掛けて待っている状態です。


サポートしていただいたものは、全て天国に旅立った愛犬(怪獣)のお供物に使わさせていただきます。