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【エッセイ】捜神記私抄 その十六

異変大好き

周の哀王八年、鄭の国(陜西省)に子供を四十人生んだ女があった。そのうち二十人は育ったが、二十人は死んでしまった。
同じく九年に、晋の国(山西省)で、豚が人間を生んだ。
呉の赤烏七年(244年)にいちどに三人の子供を生んだ女があった。

『捜神記』巻6の108「多産」

 いやいやいやいや、なんか色々おかしいっしょ。

 順番だけではない。そもそもこれらは説話ではなくて、ニュースとも言えない、単なる伝聞ではないのか。その伝聞も分類が完全に狂っている。

 なるほど40人はたしかに子沢山ではある。調べてみると、ギネスブックの多産の記録では、18世紀のロシアの農民フョードル・ヴァシリエフさんの妻(名前残っておらず)が69人の子を成したという(当然ながら、懐疑説あり)。しかしなんだって、こんなにたくさんの子どもをつくったのか。家計が破綻するだろ。それとも、ヴァシリエフさん夫婦は、一躍注目を集め、テレビのない時代とはいえ、生活を公開するとか、子どもたちを見せ物にすることで、なんやかんやとお金が集まってきたのか。

 二番目の、豚が人間を産んだとかいう話は、たしかに怪異ではある。しかし、何の展開もなく、「ああ、そう、へー」としかならない。「それで?」

 三番目に至っては、極めてフツーであり、別に面白くも、珍しくもない。なんでこれがニュースに? いや、三世紀の中国では、もしかして三つ子出産は後世へと伝えられるべきビッグイベントであって、一昔前にテレビでやっていた五つ子スペシャルみたいに、庶民の興味を盛んに掻き立てたのであろうか。

 翻訳者の竹田晃先生によると、巻六と七は(例外はあるものの)凶兆の話ということになるのだが、この108話で伝えられる出来事が何の兆しであったのか、そもそも吉なのか、兇なのかすらわからないのである。

 生き残った20人の子どもたちはその後どんな人生を歩んだのだろうか? ピッグマンは一体どうなってしまったのか? 三つ子は元気にすくすく育っているのか? 説話とは伝聞の間隙かんげきを埋めることで発展してきたのではなかろうかと思わないでもない。

元気でやってますか?
(画像はお借りしました)


 説話うんぬんはともかく、わざわざ指摘するまでもないが、私たちは異変が大好きだ。赤の他人に子どもが産まれたなんて話はどうでも良いのであって、数や形態に何か尋常ならざるものがないと興味を引かれない、即ちニュースにならないのである。かくいう私も、幼い頃には、世界の七不思議とか、心霊写真とか、超常現象などにどっぷりハマって、その手の本ばかり読み耽って、大いに両親を嘆かせたものであった。「ダメだ、この子は。ガックリ」

周の烈王六年(前370年)に、林碧陽君の夫人の侍女が竜を二匹生んだ。

109「竜の誕生」

 おそらくは障がいがあったのだろう。プロテウス症候群であっエレファントマンこと、ジョゼフ・メリックがちっともゾウに似ていないように、侍女の産んだ双子もちっともドラゴンに似ていなかったと推測される。

漢の桓帝の建和三年(149年)の七月、北地(寧夏省)で空から肉が降って来た。羊のあばら肉のような形をしており、人間の手ぐらいの大きさであった。

150「肉が空から降れば」

 出た、ファフロツキーズ現象! カエルだのサカナだのが空から降ってくる現象は、こんなに昔から伝えられていたのか。しかも、肉片ということで、1876年のケンタッキー肉の雨事件とソックリなのである。

またファフロツキーズか、ウンザリ。
文字通りIt rains dogs and cats
(Wikipediaより)

 天気予報がさらに正確になると、午後は山間部では、肉片が激しく降るでしょう、などと伝えることになるのだろうか。

ちょうどこのとき、梁太后(順帝の皇后)が政治の実権を握り、梁冀りょうき(梁太后の弟)が専横を極め、自分勝手に人を処刑したりしていた。……その後、梁一族は罪を責められて滅ぼされたのであった。

 ファフロツキーズ現象と政変という二つの異変が、どういうわけか、何の説明もなく結びつけられている。ジャンルが違う異変も、抽象してしまえば異変ということでは同じであり、人の頭の中では関連づけられるということだろうか。振り返ってみると、(前の)異変は何か(後の異変)の前兆のように捉えられることになる。

霊帝の熹平きへい二年(173年)六月、洛陽の住民のあいだに、虎ホン寺の東側の壁のなかに黄色い人が現れた。容姿もひげも眉も、生きた人のようだと流言が広まった。そこで数万人の見物人が押しかけ、省内一人残らず出かけて行ったために、交通は麻痺してしまう始末であった。

156「壁のなかの人」

 こちらはシミュラクラ効果、もしくはパレイドリアですね。岩石や木目が人の顔に見えてしまったり。さすがに皆さん物見高い、というかいくら何でも閑すぎ。どうせ、坊主が村おこしか、インバウンド消費を当て込んで壁に細工しただけだろ。

んー。いい湯だ。(Wikipediaより)

ところが、中平元年(184年)二月になって、張角兄弟が冀州に兵を挙げ、みずから「黄天」と号した。この賊は三十六ヶ所に拠点を置き、これに応ずる者は四方から集まり、将軍は星座のように配置され、その周囲に兵士が属した。けっきょく、官軍は彼等の疲弊に乗じて鎮圧し、勝利をおさめたのであった。

 いわゆる黄巾(イエローターバン)の乱である。壁の人騒動の11年後に起こった農民反乱は後漢の衰退を招き、後の三国時代を用意することになるのだが……まったくシミュラクラとは関係ないよ。この前半と後半の関連のなさはちょっと凄い。それにしても、のこのこ出かけて行って、壁の人をやんやと見物していた呑気な人たちの大半は、およそ10年後には血相変えて内乱に参加して、悲惨な末路を辿ったものであろうか。

 壁のなかの黄色い人も、人知れず涙を流していたのかもしれない。

(続く)

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