【エッセイ】捜神記私抄 その二
小説というのは、元々大説の対義語であったそうで、その元々の大説の方が現代では死語となってしまっているようだ。Wikipediaによると、大説とは「君子が国家や政治に対する志を書いた書物」とある。
大問題を小説で取り扱うなんて下品だと言った昭和の文豪のことを思い出す。彼は又、文学の極意は怪談にあると言っていなかったか。まあ、国防、エネルギー問題、温暖化、円安、格差etc.……そういう大問題をテーマに小説を書いたからといって、面白くなるとは限らない(かといって、いまさら怪奇現象が出てきても陳腐になりかねないわけだが)。
もっとも当時(およそ1700年ぐらい昔)は虚構という概念が希薄であったらしく、著者干宝自身が本書(『捜神記』)に寄せた序文でも、「先人の記録に記載されている誤りを、そのまま受け継いでいるものがあれば、それは私の責任ではない」として、「しかし、私がこの書において述べることは、ともかく神道(超現実的な摂理)が虚妄ではないということを明らかにするに足りるものであろう」とまで書いているのである。
それでは、超現実的な摂理とは何のことであるのか。歴史上の人物の逸話などを記すものである志人小説と志怪小説の違いは、その超現実という点にある。
(続く)