記憶の動物園 #レオポン
動物園で、酔っ払った中年男が手摺を乗り越えて、ヒョウの檻の鉄柵に手を伸ばし、腕を食いちぎられる。子どもの頃、そんな恐ろしい事件があった。今では、恐ろしいのは猛獣ではなく、アルコールの方だと思うような年齢になってしまった。
まだまだ若かった学生時代、ドイツの詩人を読んでいてふと思い出したのが、この事件だったのである。
通りすぎる格子のために
疲れた豹の目には もう何も見えない
彼には無数の格子があるようで
その背後に世界はないかと思われる
このうえなく小さな輪をえがいてまわる
豹のしなやかな 剛い足なみの 忍びゆく歩みは
そこに痺れて大きな意志が立っている
一つの中心を取り巻く力の舞踏のようだ
動物園の檻の中に閉じ込められたヒョウをテーマにしたこの詩では、改めて読み返してみると、常同行動を観察していることがわかる。詩人の眼差しは、行ったり来たりを繰り返すその行動の向こう側へと透徹してゆくことなく、その手前にとどまって、魅せられたまま、いわば立ち尽くしている。
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家庭教育の一環として朝刊を読まされていた小学生の私は、四コマ漫画を読み終え、あまねくテレビ欄を調べ尽くすと、そこに載っている写真をただ漫然と眺めることを毎朝の日課としていた。
「なんじゃあ、こりゃあ!」
ある朝、思わず奇声を発したのは、毎週欠かさず『野生の王国』というTV番組を観て、図鑑を集めていた程の動物好きであったこの私が見たことも聞いたこともない獣の写真が掲載されていたのである。ヒョウ柄のライオン、ライオンの立て髪を持ったヒョウ。LeopardとLionのミックスであるLeoponは、人間の勝手な思惑により飼育下での人工的な交配によりつくられた。
珍しさから人気を集めたが、やがて様々な疾患から次々と死んでゆき、一代種であるから子どももできず、残された最後の一頭も高齢で病弱であるという記事であった。
居ても立っても居られなれなくなり、親にせがんでその週末には動物園に駆けつけたことは言うまでもない。
すでにブームは去り、新聞記事も関心を惹かなかったのか、檻の前は閑散としていた。最後のレオポンは常同行動どころか、身を伏せたまま微動だにせず目を閉じて、ただそのゴージャスな立て髪を風にそよがせていた。
詩人に謳われがちな動物もいれば、そうでない動物もいるのは、それなりの理由があるのだろうが、アリクイやアルマジロ、ナマケモノの詩があれば、却って新鮮に感じられるにちがいない。
たとえばネタに困った詩人が、動物をテーマにすることに決めて、次々と書いてゆくとすると、やがて(意外と早く)アリクイやアルマジロ、ナマケモノにもその順番が巡ってくるだろうし、それはそれで味わい深いものになるかもしれない。
はぐれちまったアリクイに
今日も小雪の降りかかる
はぐれちまったアリクイに
今日も風さえ吹きすぎる
ペットショップの狭きケースに
われ泣き濡れて
アルマジロとたはむる
はたらけど、はたらけど
なほわが暮らしよくならざり
じっとナマケモノを見る
……冗談はさておき、レオポンにその順番が来ることは永遠になさそうである。
それは全く孤絶した姿だった。最後の一頭。ひとりぼっちで、兄弟姉妹はすべて亡くなり、配偶者も子どもも持ったことがなく、老い病み疲れて、何にもすることもなく、ただそこに存在している。小学生の私が、その時、その場で、そんな印象を抱いたとも思えないけれども。
彼は詩人に謳われることはなかったかもしれないけれど、意外なことにその後数年間を生き延び天寿を全うし、剥製となって今もどこかで展示されているという。しかし、すでにしてそのときから剥製のように生気を欠いていたのであった。
ただ 時おり瞳の帳が音もなく
あがると--そのとき映像が入って
四肢のはりつめた静けさを通り
心の中で消えてゆく
(了)
【引用文献】
『世界詩人全集13 リルケ詩集』新潮社