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中国人が語る中国人(二)~中国文化の精髄



中国文化の精髄~張岱年「中国文化的基本精神」

張岱年(1909~2004年)は、中国の著名な哲学史研究家である。清華大学、北平私立中国大学などを経て、北京大学教授に就任。のち、中国社会科学院哲学研究所兼職研究員、中国哲学史学会会長、中華孔子研究会会長、清華大学思想文化研究所所長などを歴任。

張岱年は、専門の哲学研究のみならず、中国の文化や民族性に関わる発言が多い。「中国文化的基本精神」は、中国文化の精粋として「天人合一」「以人為本」「剛健自強」「以和為貴」の四項目を挙げ、中国の伝統文化を総括したものである。

愛国教育としての伝統文化讃美

今の時代、中国人として最も重要なことは、愛国意識を持つことであるが、愛国意識には一定の思想的基礎がある。祖国を愛すべきものと認識してはじめて愛国意識を持つことができる。祖国を愛すべきものと認識するためには、中国文化の優れた伝統に対して正しい理解をすることが必要である。

この論文が発表された1994年は、中国共産党が盛んに愛国教育を推し進めていた時期である。愛国主義を人民に植え付ける手段として、反日教育と並んで、自国の伝統文化を称揚し、祖国に対する自尊心を高めようとした。

ここで「伝統文化」と言うのは、主に儒家の伝統文化を指す。儒家は、先秦の諸子百家の代表的な学派であり、孔子を祖として孟子に受け継がれ、人としての修養の法や人間社会における倫理道徳を説いた。

儒家思想は、漢代に国教と定められて以来、中国の思想史上、つねに主流の座を保ち続けてきた。それは、統治者に都合のよい思想であるからにほかならない。中国政府が愛国運動の一環として儒家の伝統文化を称揚するのも、そうした政治的狙いがあってのことである。

「天人合一」

「天人合一」とは、人と自然の統一を肯定すること、すなわち人間と自然界が敵対する関係ではなく、互いに不可分の関係にあると認めることである。
「合一」は、対立したもの同士の統一であり、双方が互いに依存し合う関係にあることである。人は自然界の一部分であり、人は自然を理解し人工的に手を加えて変化させることはできても破壊するべきではない。こうした理念は、西洋の「自然を克服する」という考え方とは大きく異なる。

中国文化は人間と自然との調和を重視し、自然界を人が克服すべき対象とは見なさず、自然と人類、すなわち「天」と「人」とが互いに依存し合う関係にあるとしている。

「天」は「地」と並列される概念である。天は父、地は母。人も万物も天地の生み出すところのものというのが、古代中国人の考え方である。

「天人合一」とは、人事(人間界の事象)は、天意(天の意志)を体現したものであり、両者は一体であるとする説である。子思・孟子らが唱え、漢代の大儒董仲舒がこれを受け継いで「天人感応」説に発展させた。

「天人感応」は、天と人とが互いに通じ合い関与し合うとするものであり、古代中国人が、天災や奇跡の起こるメカニズムとしていたものである。

「以人為本」

「以人為本」は、人間を「もと」とする、いわゆる人本主義であり、宗教家が神を主体とするのに対する言い方である。孔子は、天命の存在を認めていたが、鬼神の存在については懐疑的であった。「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし」と語り、人に重要なのは道徳であり、鬼神に救いを求める必要はないとしている。
さらに、孔子は、生きている間のことだけを問題にするべきであり、死後のことは考慮する必要がないとも語っている。『論語』に次のようにある。
「季路、鬼神につかうることを問う。子曰く、未だ人に事うることあたわず、いずくんぞ能く鬼に事えん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」

上文では、『論語』からの引用が二箇所ある。一つは「雍也」篇からの引用で、弟子の樊遅に「知」について質問された際に、孔子は「民のためにするべき正しい道に務め、鬼神(祖霊、神霊)には敬意を払っても、一定の距離を置く。それが知者だ」と語っている。

もう一つは「先進」篇からの引用で、弟子の子路が鬼神の祭りについて尋ねると、孔子は、「生きている人につかえることもろくにできないのに、どうして死んだ人につかえることができようか」と答えている。続いて、子路が死について尋ねると、孔子は「生のことさえわからずに、どうして死のことがわかろうか」と突き放している。

儒家思想は、この世に生きている人間とその社会についてのみ語る修養論、処世論であり、来世や超現実的な事柄は敬遠してあえて触れない。中国人の現実主義、現世第一主義の根源がここにある。

「剛健自強」

先秦の儒家は「剛健自強」という人生の準則を掲げた。孔子は「剛」の品徳を重視し、「剛毅木訥、仁に近し」と語っている。「剛毅」とは、すなわち意志が固く揺るぎないことである。古代哲学の中で、「剛健自強」と密接な関係があるのは、「独立した意志」、「独立した人格」、そして「原則を固く守るために自らの生命を犠牲にできる精神」である。
孔子は、仁の徳を実践するためには、個人の生命を犠牲にすることができるとして、「志士仁人は、生を求めて以て仁を害する無く、身を殺して以て仁を成す有り」と語っている。孟子はさらに一歩進めて、「生も亦我が欲する所なり、義も亦我が欲する所なり。二者兼ぬるを得べからずんば、生をてて義を取る者なり」と語っている。

ここでも、『論語』から孔子の言説が引かれている。一つは「子路」篇に見える一節で、「剛毅木訥は、仁の徳に近い」と述べている。「剛・毅・木・訥」は、意志が強いこと、果敢であること、質朴であること、口数が少ないことを言う。

次に、「衛霊公」篇から、「志ある者、仁を行う者は、命を惜しんで仁を損なうことはない。命を犠牲にしてでも仁を全うしようとする」と語った一節を引いている。

続いて、『孟子』「告子上」の一節を引いている。その中で孟子は、「わたしは生命を欲する。同じく義も欲する。だが、両方を得ることができないのであれば、命を捨てて義を取る」と述べている。

孔子・孟子の説く「仁」を行い「義」を貫く精神は、人としての自己の尊厳を守ることであり、何ものにも譲らないという強さの源とされる。

「以和為貴」

古代中国では「和」を最も価値あるものとしている。孔子は「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と語っている。孔子の言う「和して同ぜず」とは、自分の意見をしっかりと持ち、人の言ったことの受け売りをしない、ということである。「和」とは、多様性の統一、異なる見解の容認である。 儒家の「和」を尊ぶ思想は、民族の団結を促進し、民族の凝集力を強化し、そして民族の融和を促進し、民族文化の同化力を強化するという働きをもたらした。
中華民族は、多元の統一体であり、中国文化もまた、多元の統一体である。多元の統一こそ、まさに中国古代哲学で言うところの「和」を体現するものである。「和」というものは、矛盾するものの対立を承認しないということではなく、矛盾を解決してさらに高次元の統一に到達するという考え方なのである。

四項目の最後に挙げられている基本的精神が「以和為貴」(和を以て貴しと為す)である。 

『論語』の中には、「君子」(有徳の為政者、もしくは立派な人格者)と「小人」(無徳の庶民、もしくは卑小な人間)について、両者を比べた孔子の言葉が随所に見られる。

ここでは「子路」篇からの引用である。孔子は、「立派な人間は、人と調和するけれども付和雷同はしない。つまらない人間は、付和雷同するだけで、人と調和することがない」と語っている。

元来「和」は、人間関係における心得として説かれる概念であるが、張岱年は、民族団結という政治的宣揚に応用して語っている。

これは、現代中国が、漢民族と五十五の少数民族からなる「多元的統一体」であることを強調するものであり、チベットやウイグルで民族問題を抱えている中国政府の地方自治の諸問題が背景にあることは明白である。
 
ちなみに、この「中国文化的基本精神」は元は『華夏文化』(1994年12月)に掲載された論文であり、儒家のみならず道家や墨家など他の学派にも言及している。ところが、張氏の没後、『党的文献』(中共中央文献研究室編)に転載された際には、他の学派の言説の引用はすべて削除されて儒家一色になり、また張氏が中国伝統文化の悪弊として指摘した部分はすべて削られている。

儒家思想の功罪

この論文で述べられている四つの基本精神は、いずれも儒家的な伝統文化の優良なる一面である。これらはあくまで中国人が理想として古来掲げてきたスローガンであり、古い時代、あるいは今日の中国社会において実現されているというわけではない。むしろ、実現されていないことの方が多く、そうであるからこそスローガンとされてきたと考える方が実情に近い。

また、中国の伝統文化が必ずしも優良で健全なものばかりではないことは、張岱年もしばしば明言している。

「世界文化与中国文化」(『張岱年文集』第一巻)では、次のように言う。

「中国の古い文化には、いったいどれほどの優秀なものがあるのだろうか。正直に言えば、古い文化の中の良いものは、悪いものと比べてみると、数量の上では圧倒的に少ないのである。一つまた一つと盛られた糞土の中で、ごくわずかなダイヤモンドが光り輝いているようなものだ」

その他の論文においても、以下のように、伝統文化の悪習や弊害について、さらに具体的に語っている。

「中国の伝統文化の中の根深く強固な思想意識は、すなわち等級観念である。儒家と法家は、いずれも上下貴賤の等級差別を強調した」
(「中国伝統文化与現代社会」『哲学研究』1994年4月)

「漢代以後、専制王権は、名目上は儒家を尊重しながら、実は儒家の名義を借りて専制独裁を維持擁護した」
(「中国文化優秀伝統内容的核心」『北京師範大学学報(社会科学版)』1994年第4期)

「中国の伝統文化には大きな欠点が二つある。一つは、実証科学が発達しなかったことである。もう一つは、民主主義が欠如していることである」
(「中国伝統文化的分析」『理論月刊』1986年第7期)

儒教は、中国人の精神世界を支配し続けてきた伝統思想である。人間関係を倫理的に保ち、社会秩序を安定的に維持するのには有効な教えではあるが、その一方、科学的・合理的精神に欠け、創造性に乏しいなど、マイナス面も少なくない。

儒家思想は、中国のみならず、広く漢字文化圏において、人々の生活の中に深く浸透している。『論語』に見える孔子の言説は、人としての修養の要諦、社会における行動の指針など、処世訓や座右の銘とするに値する知恵の宝庫である。

しかしながら、儒家の教条や礼法の中には不条理な教えやしきたりも多く、抑圧的な社会環境をもたらす結果にもなる。礼教道徳が、人々の心を縛り、自由な精神の発露や自立的な思想の発展を阻害する桎梏となることも少なくないのである。


*本記事は、以下の記事のダイジェスト版である。



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