【中国人の面子】二千年変わらぬ中国人の体質
中国人と面子
「面子」(メンツ)は、中国人を理解する上でのキーワードである。
「顔が広い」「面目を失う」「体面を気にする」などと言う時の「顔」「面目」「体面」と似ている。
魯迅(1881ー1936)は、「面子について」(原題「説 “面子”」)という文章の中で、次のように語っている。
文中の「24年前の辮髪」云々は、辛亥革命の時のことを指す。
魯迅が言及している「外国人」というのは、米国人の宣教師、アーサー・スミス(1845ー1932)のことであろう。
スミスは、中国で22年の歳月を過ごし、 Chinese Characteristics (邦題『支那的性格』)という書物を著した。
その中で、面子の問題を巻頭第1章のテーマとして取り上げ、その冒頭で、次のように語っている。
今日刊行されている「中国人論」「中国文化論」の類の論著においても、必ずと言ってよいほど言及されるのが、この面子の問題である。
行動様式の尺度
食事の接待は、ホストとゲストの面子が正面からぶつかり合う場であり、中国人の面子の攻防を目の当たりにすることができる。
面子の大きい人から食事に誘われるのは面子の立つことであり、面子の大きい人を食事に誘うことができるということも、面子の立つことである。
誰を招くべきか、誰を招かなくてもよいか、誰を丁重にもてなすべきか、誰をいい加減にあしらうだけで構わないか・・・。招待する人の選定から接待の度合いまで、すべて面子の大小によって決定される。
ホストは、最高級のご馳走を並べながら、「お口に合わないでしょうが」とゲストの面子を立てる。
ゲストは、食欲が進まない料理であっても、「美味しい!」を連呼して、ホストの面子を立てる。
食事の接待のみならず、服装の選択、贈品の授受、頼み事の諾否、揉め事の解決法など、人と人が関わる場面では、すべて面子が物差しとなる。
日常生活では、つねに面子を尺度として、一切の行動の取捨が決められ、行動の程度や限度が計られるのである。
面子を失った項羽
その昔、楚の項羽は、秦の都咸陽を焼き払うと、いまだ天下が定まらず、強敵劉邦が目の前にいるにもかかわらず、矢も楯もたまらず、故郷に帰ろうとした。
秦の宮殿が焼け崩れるを見て、項羽はこう言った。
富貴になっても、故郷に帰ってその姿を見せなければ、錦の服を着て真っ暗な夜道を歩くようなものだ。凱旋する勇姿を人々に披露しなければ、誰も自分の功績を知り得ないではないか、というわけだ。
面子というものは、人から評価されて初めて保たれる。戦功を上げても、それが人に知られなければ、まったく意味がないのである。
さて、秦が滅亡すると、項羽と劉邦が天下争いを繰り広げた。初めは優勢だった項羽であるが、形勢を逆転され、追いつめられて四面楚歌に陥る。
代々楚の将軍という由緒ある家系の出身であり、勇猛無敵の武将として、一時は天下に覇を唱えた項羽は、人一倍自負心の強い男であった。
敗北は自分の力不足のせいではなく、天が味方をしなかったためだ、と自らの運命を歎く。
敗れて面目を失った項羽は、潔く自尽した。
江東に戻り、体勢を立て直して再び決起すれば、捲土重来の望みは持てた状況であった。しかし、項羽の面子がそれを許さなかった。
面子を失うことは、時として命を失うよりも恐ろしいことなのである。
項羽の最期は、面子喪失者の末路であった。
項羽が生きた時代は、紀元前3世紀である。
面子にこだわる中国人の体質は、少なくとも2000年以上前からずっと変わっていないということになる。
面子とプライド
面子は、「プライド」「誇り」「自尊心」「名誉心」「見栄」などと似たもので、日本人や欧米人も多かれ少なかれ持っているものである。
しかし、中国人の場合は、この面子に対する執着の度合い、そして、それを失った時の深刻さの度合いが、他の民族に比べてずっと強い。
中国人の特質として挙げられる行動パターンや思考モードの多くが、面子を鍵として考えることによって、一定の解釈を導き出すことが可能になる。
例えば、中国人の特質の一つとして、「非を認めない」ということがよく言われる。
このことも、面子を軸にして、その理由を考えることができる。
非を認めることは、面子に関わることであるから、明らかに自分が間違っているとよくわかっていても、なかなか間違えを認めようとしない。
事実がどうであるのか、何が正しいのかなどは、面子の前では二の次になる。そこから、甚だ不可解な弁解、曲論、開き直りの態度が生まれてくるのである。
また、中国人は、「人前で叱責されることを極端に嫌う」とも言われる。
この場合も、人前でそのような目に遭って「恥ずかしい」という日本的な羞恥の感覚ではなく、中国人にとっては「面子をつぶされた」という憤怒の感情が先立つ。
面子をつぶされることは、中国人にとって、この上ない屈辱なのである。
注意を要することは、中国人の面子は、「プライド」や「誇り」とは似て非なるものである、ということである。
「プライド」や「誇り」というものは、西洋の騎士道や、日本の武士道のように、その人間を支える道徳精神の問題である。
しかし、中国人の面子は、そうした類のものではなく、往々にして利害が関わっていて、そこに何らかの計算が働いている。
中国人が面子にこだわるのは、個人の尊厳を守るためというより、むしろ自分の立場や利権を守るためなのである。
中国社会に蔓延する不正や腐敗の問題も、面子と無縁ではない。
利権を手にしている人間ほど、面子に対する執着心が強い。
賄賂が横行し、事実が隠蔽され、冤罪が生じる背景には、法律や正義よりも、自分の面子を重んじる官僚や警察の体質が、少なからず関わっているのである。
面子に関して、およそ100年前に魯迅やスミスが指摘したことは、今日の中国人にも、ほぼそのまま当てはまる。
経済発展が進み、軍事大国となり、社会の様相が一変しても、民族の根本的な体質は、それほど大きく変わるものではない。
現代中国においては、とりわけ外交の場で、面子が大きく物を言う。
国家の意思決定は、必ず面子と相談した上で行われなくてはならない。
他の国家と交渉する際には、いかなる問題においても、中国という国家の面子を保つことが最優先なのである。
* 本稿は、以下の記事を改編したものである。