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中国人が語る中国人(三)~良き伝統、悪しき伝統
良き伝統、悪しき伝統~王蒙「文化伝統与無文化的伝統」
王蒙(1934~)は、現代中国の著名な小説家、文芸批評家である。1948年、14歳で中国共産党に入党。新中国成立後、新民主主義青年団の活動に加わりながら執筆活動に従事した。反右派闘争で右派分子と認定され、北京郊外へ下放される。62年、北京師範学院で教職に就くが、翌年、新疆ウイグル自治区へ移る。78年、北京に戻り北京市文聯に所属する。中国作家協会副主席、中国共産党中央委員、中華人民共和国文化部部長などの職を歴任。
「文化伝統与無文化的伝統」は、雑誌『読書』(1989年第21期)に発表された文章である。
古き良き伝統文化は何処へ
この文章が発表された80年代後半は、中国政府が愛国主義教育を推し進め、自国の伝統文化を盛んに称揚しようとしていた時期であった。
しかし、そうした政府の宣揚が虚しくこだまするかの如く、現実の中国社会では、人々の日常の行動様式に古き良き伝統文化を見い出すのが難しい状況にあった。
商店では店員と客が口汚く罵り合い、バスの中では乗客同士が罵詈雑言を浴びせ合う。テレビでは偽の医薬品や農薬の報道。こうした場面に出会うと、わたしはいつも一つの問題を考える。こうした現象は一体如何なる伝統文化の表れなのであろうか。孔孟の教えなのか、老荘思想なのか。仏教なのか、道教なのか。一体誰がこのような野蛮で、利己的で、公衆を損ない自己をも害するようなことを良しとして唱えたのだろうか。
伝統文化、例えば「四書五経」「諸子百家」「孔孟の道」「程朱の学」「詩書礼楽」「琴棋書画」「仁義道徳」「忠孝節義」「四維八綱」「正心誠意」、これらは今の世の中に一体どれだけ残っているのだろうか。
文中の「四書五経」以下、いわゆる伝統文化を代表するものとして挙げられているのは、主に儒家思想に基づく中国の古き良き伝統文化である。
この中の「四維八綱」は「礼・義・簾・恥」と「忠・孝・仁・愛・信・義・和・平」を言い、儒家の唱えた徳目を代表するものである。
これらは、前回の記事「中国文化の精髄」で見たように、張岱年らが先頭に立って国民に宣揚した伝統的美徳である。
王蒙は、こうした中国政府のプロパガンダに疑問を呈し、果たして中国の「伝統」とは如何なるものなのか、と世論に一石を投じている。
「無文化」の伝統
「文化」と相対するのは「無文化」「非文化」「反文化」である。中国の封建文化、伝統文化を語る時、もう一つ別の非常に有力な伝統のことを忘れてはならない。それこそが「無文化」「非文化」「反文化」の伝統、すなわち聖を絶ち智を棄つる伝統、無頼やならず者の伝統である。
仮に、前者を「士大夫文化」もしくは「宮廷文化」「郷紳文化」と呼ぶとすれば、後者は「鄙俗文化」もしくは「ゴロツキ文化」とでも呼ぶべきものである。「鄙俗文化」「ゴロツキ文化」は、「士大夫文化」と同様に、源流を遠い過去にまで遡ることができる。歴史上、「鄙俗文化」「ゴロツキ文化」は、しばしば農民一揆の隊列に大威張りで入り込み、革命の旗や新時代到来の幟を振りかざしてきたのである。
王蒙は、文化的伝統に対して「無文化」「非文化」「反文化」の伝統という彼独自の概念を呈示している。
歴史上、農民一揆が王朝交替の直接的な原因となることが少なくない。漢の劉邦や明の朱元璋のように、天下を取った皇帝自身が農民出身であることもある。
劉邦は、郷里の沛県ではもともと無教養のゴロツキであった。『史記』の中で劉邦がいかにも有徳の大人物であるかのように描かれているのは、劉邦が漢の初代皇帝であり、司馬遷が漢王朝の史官であるという制約によるものであり、劉邦の実像を示すものではない。
文化を粉砕した文化大革命
続いて、王蒙は「無文化」とは如何なるものなのか、独自の視点から語っている。
まず第一に、我々のこの悠久の文明国家は、古来、文盲の方が識字層よりもずっと多いのである。「無文化」の伝統は、文化的伝統よりもさらに強大であると言ってよい。
次に、歴代の政権交代は、武力によって果たされたものであり、文化によるものではない。現実には、「覇道」の方が「王道」よりもずっと力強いのである。
さらに、我々の伝統文化は、あまりに古く、あまりに衰微していて、大きな改革と再生を必要としている。長い歳月にわたって生命力を絶やさないできたのは、伝統文化よりは、むしろ「無文化」と「非文化」の伝統の方なのである。
こうした破壊的、冒険的、恫喝的、奴隷根性的であり、文化を敵対視する「無文化」「非文化」の特性が事を経るごとに激しさを増した結果、歴史上類を見ない「文化大革命」を産んだのである。
「王道」は、孟子が提唱した儒家の政治理念であるが、中国の歴史上、この理念が実現されたことは一度もない。
政権交代は、つねに武力を恃む「覇道」によって成し遂げられてきた。文化大革命もまたそうした歴史の流れから必然的に起こった武力革命であった。
文化大革命は、1966年から77年まで、およそ十年間、中国全土を政治の嵐に巻き込んだ動乱である。封建的文化と資本主義を排し、無産階級(プロレタリア)の手で新たな社会主義国家を建設すると謳った革命であった。
しかし、実質上は、大躍進政策の失敗で失脚した毛沢東が奪権を謀って発動したクーデターであり、紅衛兵による暴力的な粛正運動を伴う大規模な権力闘争であった。
一切の既成価値を変革するという掛け声の下、数知れぬ遺跡や文化財が破壊された。資産家や知識人が、資産家、知識人であるという理由だけで、吊し上げられ、殴打され、投獄され、命を落とした者も大勢いた。反動分子摘発の員数合わせで、息子が父を、妻が夫を告発することさえ奨励された。
有形の財産や人の生命が甚大な被害を被ったばかりでなく、伝統的な学問や美徳という無形の文化にも深刻な傷跡が残された。
「文化」の二字を冠した文化大革命は、まさに「無文化」「非文化」の破壊的暴力が伝統文化を粉砕した革命であった。
その犠牲者の数は、百万単位で説に異同があり、いまだに定説を見ない。80年代以降、中国政府は文化大革命を「重大な歴史的誤り」として全面否定している。
しかしながら、文化大革命は否定するものの、首謀者である毛沢東に対しては明確な断罪を行っていない。それは、漢の高祖劉邦の場合と同様、毛沢東が中華人民共和国の初代主席であるからにほかならない。
現代中国人の道徳観念や人間関係における負の一面は、半世紀の年月を経てもいまだに癒えない文化大革命の後遺症によるものと指摘する識者も少なくない。
*本記事は、以下の記事のダイジェスト版である。