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「勉強しなさい」の文化

幸いわたしは、親から、
「勉強しなさい!」
と言われた記憶がない。

小学生の頃、いちおう塾には通っていた。
が、家を出るときバットとグローブを持っていたから、
どこへ行くのかバレバレだったが、母は、
「いってらっしゃい!」
と、気づかないふりをしてくれた。

毎回のことではなかったが、
どれだけ月謝を無駄にしたことだろうか。


それはさておき、「勉強しなさい」という言葉は、
いかにも日本人らしい発想の言葉である。

「勉強」の「勉」は「つとめる」、「強」は「しいる」だから、
「勉強しなさい!」は「無理して頑張りなさい!」という意味だ。

イヤでも無理して頑張ることを美徳とする日本人らしい発想だ。

「奥さん、トマト勉強しとくよ!」という八百屋のご主人も、
「この値段じゃ店が損するけど、無理してまけるよ」
という意味だから、同じ発想だ。


さて、現代中国語でも「勉强」と言えば「無理強いする」という意味だ。

「まなぶ」という意味の中国語は、「學」または「學習」という。

これもまた別の意味で、いかにも中国人らしい発想の言葉だ。

『論語』の冒頭で、孔子はこう語っている。
「学びて時に之を習う、亦よろこばしからずや」(學而時習之、不亦説乎)

古漢語で「學」は「まねる」という意味、
「習」は、「おさらいする」という意味だ。

何をまねるかと言えば、先生の言ったことをまねる。
学童は、先生が言ったことをそのままオウム返しする。

先生が「國破山河在、城春草木深・・・」と朗誦したら、
学童も「國破山河在、城春草木深・・・」と朗誦する。
意味など分からなくていいから、とにかく先生の声をまねる。

中国の小学校で今も見る光景だ。


中国では、大人の学問のレベルでもこの伝統がある。

孔子の学問は「祖述」が基本である。
先人の言説を受け継いでそのまま述べることを是とした。

孔子は、いにしえの聖賢の言葉をそのまま後世に伝えることを自分の使命としていた。

弟子は師匠の教えをそのまま学んで、繰り返しおさらいして頭に刷り込む。
勝手に新説など述べてはいけない。

これが儒家の学問であった。

一般論ではあるが、よく中国人は創造力、応用力に欠けると言われるが、
この辺にその淵源があるのかもしれない。


ちなみに、英語の「study」の語源は、ラテン語の「studium」に遡る。「studium」は、「熱心に行う」「情熱をもって取り組む」という意味だ。

「イヤなのに無理してやる」という日本語のネガティブな発想に比べて、
「熱心に取り組む」という英語の方はポジティブに聞こえる。

こんなことを言うと、「短絡的な飛躍だ!」と叱られそうだが、
まあ、当たらずとも遠からずかもしれない。



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