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項羽と劉邦~謀殺未遂の宴「鴻門の会」
『史記』については、こちらをご参照ください。↓↓↓
「項羽本紀」
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項羽の事跡については、司馬遷の『史記』「項羽本紀」に詳しい。
「本紀」は、歴代の皇帝の事績を記したものである。
帝位に即かなかった項羽がこの中に含まれるのは、項羽が、一時期天下の実権を握ったことを認めたものである。
項羽は、名は籍、字が羽。秦末の楚の武将である。
「項羽本紀」の冒頭に、項羽の人柄を象徴する逸話がある。
項羽は、学問も剣術も上達せず、叔父の項梁が怒ると、項羽は言った。
「文字なんぞ自分の名前が書ければ十分だ。剣術は一人を相手にするだけでつまらない。万人を相手にすることを学びたい。」
そこで、項梁は、項羽に兵法を教えた。
世は、秦朝の末。
始皇帝によって中国全土が統一されたが、やがて圧政に耐えかねた民衆の不満が募る。
陳勝・呉広の乱が起こり、一気に秦朝打倒の機運が全土に広がり、各地に反乱勢力が現れる。
その中で有力だったのが、項羽の叔父項梁であったが、進軍の途上、秦の将軍章邯に討たれ、代わって項羽が反乱軍の領袖を務めることになる。
項羽は、上将軍に任じられて勢力を伸ばし、秦の主力部隊である章邯の軍を鉅鹿で破り、反乱軍の勝利を決定づけた。
ところが、項羽が北で章邯と戦っている間に、劉邦が南から関中に入り、秦の都咸陽を攻め落とした。
先を越されて怒った項羽は、劉邦を攻めようとする。それを知った劉邦が項羽の陣に謝罪に出向いたのが、かの「鴻門の会」である。
鴻門の会
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「鴻門の会」の前夜は、緊迫した場面があった。
項伯(項羽の叔父)は、かつて張良(劉邦の参謀)に命を助けてもらった恩があった。
項羽が劉邦を攻撃しようとしていることを知ると、項伯は、劉邦の陣営に馳せ至り、張良に事の急を告げ、逃げるよう勧告する。
しかし、張良は、主君の危機を知りながら自分だけ逃げるのは不義であるとし、これを拒む。
そして、張良が項伯を劉邦に会わせると、劉邦は驚いて、項伯に調停役を依頼する。
項伯は、項羽の陣に戻り、秦を攻め滅ぼした功績のある劉邦を討つべきではないと進言し、攻撃を思いとどまらせた。
次の朝、劉邦が項羽に謝罪をしに出向くことになった。
【1】
沛公(劉邦)は、翌朝、百余騎の兵を従え、項王(項羽)と会見した。
鴻門(陝西省臨潼県)に到着し、項羽に謝罪して言った。
「私は将軍殿と力を合わせて秦を攻めました。将軍殿は河北(黄河以北)で戦われ、私は河南で戦いました。ところが、私の方が先に関中(陝西省)に攻め入って秦を破り、ここで再び将軍殿にお目に掛かることになろうとは思いも寄りませんでした。今、つまらぬ者の讒言があって、将軍殿と私の仲を裂こうとしております。」
これを聞いて、項羽は言った。
「それは、沛公殿の部下、左司馬の曹無傷が言ったことだ。そうでなければ、どうしてわしが沛公殿を攻撃することなどありえようか。」
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【2】
項羽は、その日、沛公を陣中に引き留め、共に和解の酒を酌み交わした。
項羽と項伯は東向き(上座)に座り、亜父(あほ)は南向きに座った。亜父とは、范増(項羽の軍師)のことである。沛公は北向きに座り、張良(沛公の参謀)は西向きに侍して坐った。
范増は、何度も項羽に目配せをし、腰につけた玉玦を持ち上げて合図を送り、三度にわたり沛公殺害の決断を促した。
しかし、項羽は、黙ったまま応じようとしなかった。
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【3】
そこで、范増は席を立ち、外に出て項荘(項羽の従弟)を呼んで言った。
「わが君(項羽)のお人柄は、むごいことができない。おまえが中に入って、沛公の前に進み出て、杯を勧めて長寿を祝え。それが終わったら、剣舞をすることを願い出て、機に乗じて、沛公を座上で斬り殺せ。もしそうしなければ、おまえの一族は、いつかみな沛公に捕らえられることになろう。」
【4】
そこで、項荘はすぐに宴席に入って、沛公に杯を勧めて長寿を祝った。
それが終わると、項荘は言った。
「わが君が沛公殿と共に酒を酌み交わしておられますのに、軍中にはなんの娯楽もありません。どうか私に剣舞をさせていただきたく存じます。」
項羽は「よかろう」と言った。
そこで、項荘は剣を抜き、立ち上がって舞った。
すると、項伯も剣を抜き、立ち上がって舞い、つねに身を挺して、親鳥が翼で雛を庇うように沛公を守った。そのため、項荘は沛公を撃つことができなかった。
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【5】
そこで、張良は、陣営の入り口へ行って樊噲(劉邦の部下)を呼んだ。
樊噲は尋ねた。
「今日の会見は、いかがな様子でしょうか。」
張良は答えた。
「極めて危うい。今、項荘が剣舞をしている。隙あらば、沛公を殺そうとしているのだ。」
樊噲は言った。
「それは一大事だ!私が中に入って、沛公殿と生死を共にさせていただきたい。」
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【6】
樊噲は、すぐさま剣を持ち盾を抱えて、陣営の中に入ろうとした。
槊を交叉して門を守っていた番兵たちは、樊噲を押しとどめ、中に入れまいとした。
樊噲が盾を横に傾けて、グイッと突くと、番兵たちは地面に倒れた。
樊噲は、そのまま中に入り、幕を開いて西向きに立ち、目を怒らせて項羽をにらみつけた。髪の毛は逆立ち、まなじりは裂けんばかりであった。
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【7】
項羽は、剣の柄に手をかけ、片膝を立てて身構えて言った。
「そこに来たのは何者だ。」
張良が答えた。
「沛公の参乗(護衛)、樊噲という者です。」
項羽は言った。
「勇壮な男だ。この者に大杯の酒を与えよ。」
そこで、一斗入りの大杯の酒が与えられた。
樊噲は、謹んで礼を述べて立ち上がり、立ったまま酒を飲み干した。
項羽は言った。
「この者に豚の肩肉を与えよ。」
そこで、生の豚の肩肉が与えられた。樊噲は、盾を地に伏せ、豚の肩肉をその上に載せ、剣を抜いて肉を切ってむさぼり食った。
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【8】
項羽は言った。
「勇壮な男だ。まだ飲めるか。」
樊噲は言った。
「私は、死さえも避けはいたしませぬ。ましてや酒ごとき、どうして辞退などいたしましょうか。かの秦王には、虎狼の如き残虐な心がありました。数え挙げられないほどの人を殺し、処罰しきれないほどの人に刑を下しました。そのため、天下はみな秦王に背いたのです。楚の懐王は、将軍たちと約束しました、『先に秦を破って咸陽に入った者を王とする』と。今、沛公が最初に秦を破って咸陽に入りましたが、財宝には一つも手を出しておりません。宮室を閉鎖し、軍を返して覇上(陝西省西安市東)に陣を敷き、大王殿のお出でを待っておられました。武将を派遣して関所を守らせたのは、盗賊の出入りを防ぎ、非常事態に備えるためです。沛公殿はかくも労苦して大功を立てたのに、いまだ領地や爵位の恩賞をいただいておりません。その上、大王殿は曹無傷の讒言を聞き入れて、功績のある人を誅殺しようとなさっています。これでは、滅んだ秦の二の舞であります。私めの思うに、大王殿のなさるべきことではございません。」
項羽は、何も返答せずに、「まあ、座れ」と言った。
樊噲は、張良の後ろに座った。
間もなく、沛公は、立ち上がって厠に行き、その機に乗じて、樊噲を呼び寄せて外に出た。
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【9】
沛公が宴席から出て行くと、項羽は、都尉の陳平に命じて、沛公を呼びに行かせた。
沛公は、樊噲にこう尋ねた。
「宴席を出てきた時、暇乞いをしていない。どうすればよいだろう。」
樊噲は、答えて言った。
「諺に、『大きな事を行うには、些細な礼儀作法などにはこだわらない。大きな礼節を守るには、つまらぬ譲り合いなど問題にしない』と申します。今、相手は包丁とまな板、我々は魚肉のようなもの。どうして挨拶などする必要がありましょう。」
かくして、沛公は、そのまま立ち去った。
【10】
沛公は、張良をその場に留めて、代わりに謝罪させることにした。
張良は尋ねた。
「沛公殿は、ここに来られる時、何を手土産にお持ちになりましたか。」
沛公は言った。
「白璧一対を項王に献上し、玉斗一対を亜父(范増)に贈りたいと思っていたのだが、項王の怒りを目の当たりにして、献上できなかった。君が私に代わって献上してくれ。」
張良は答えた。
「謹んで承知いたしました。」
【11】
この時、項羽の軍は鴻門のあたりにあり、沛公の軍は覇上にあって、その距離は、四十里(20キロ)ほどであった。
沛公は、馬車と騎馬の部下をその場に残し、身を脱して、一人馬に乗り、樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信ら四人の部下が、剣と盾を持って徒歩で付き従い、驪山のふもとから芷陽を経由して、抜け道を通って行くことにした。
沛公は、張良に言った。
「この道を行けば、我が軍営までせいぜい二十里だ。私が自軍に到着するのを見計らって、君は宴席に戻れ。」
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【12】
沛公は、その場を立ち去ると、間道を通って自軍に到着した。
張良は、宴席に戻って、謝罪してこう述べた。
「沛公は、もはや酒に堪えられず、お別れの挨拶も申し上げられません。そこで、再拝して白璧一対を大王殿の御前に、玉斗一対を大将軍殿(范増)の御前に献上せよ、と私に命じました。」
項羽は尋ねた。
「沛公は、どこにいるのだ。」
張良は答えた。
「大王殿が沛公殿をお咎めになる意思がおありだと聞き、沛公殿は、身を脱して立ち去られました。もうすでに軍中に至っている頃でしょう。」
【13】
項羽は、白璧を受け取り、座席の傍らに置いた。范増は、玉斗を地面に置き、剣を抜いて叩き壊して言った。
「(項羽を罵って)ああ、小僧め!天下の事を共に謀るに足らぬ。項王の天下を奪う者は、必ず沛公だ。我らは、今に奴の虜となるだろう。」
沛公は、自軍に戻ると、即座に曹無傷を誅殺した。
項羽と劉邦
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項羽は、猛々しく気性が荒い。
投降した兵士二十万人を穴埋めにするなど、残忍極まりない行為をする。
しかし、その反面、情にもろい一面も見せている。
「鴻門の会」では、上の【3】の場面で、范増の言葉で、
君王、人と爲り忍びず。
(項羽の人柄は、むごいことができない。)
とある。つまり、情にもろく、劉邦を殺すに忍びない、ということだ。
「項羽本紀」における項羽の人物像は、矛盾が多い。
一方、劉邦は、いかにも頼りない、主体性のない人間に描かれている。
【9】では、「挨拶をせずに出てきてしまった、どうしたらよかろう」とうろたえ、「そんなこと言ってる場合ですか」と樊噲にたしなめられる。
【10】では、謝罪さえも張良に代わりにしてもらっている。
劉邦は、軍の領袖でありながら、自分で事を決めることができず、何でも人任せだ。のちに天下を取ることになる人物には似つかない。
ところが、そうした主体性の欠如という短所が、「高祖本紀」の中では、人の意見に耳を傾けることができる、という長所にすり替えられている。
こうした項羽と劉邦の人物像の矛盾、曖昧さ、不徹底さは、史官としての司馬遷の立場によるものである。
司馬遷は、漢王朝に仕える役人であり、劉邦は、その漢王朝の初代皇帝である。そして、項羽は、劉邦と天下を争った敵将である。
項羽は、由緒正しい武将の家柄で、勇猛果敢な希代の英雄である。
司馬遷としては、本心では項羽を高く評価していても、劉邦に勝る英雄として描くわけにはいかない。
一方、劉邦は、貧農出身の無教養な遊び人であった。
ところが、時の運とは言え、とにもかくにも漢の皇帝になったからには、偉大な人物に仕立て上げないわけにはいかない。
こうしたジレンマは、『史記』のみならず、すべての正史(国家の事業として編纂される公認の史書)に見られる。
中国の史書が、書かれている額面通りに解釈してはならない所以である。
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