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「狂」(四)~陽明学


王陽明の「狂」

中国の精神文化史上、「狂」の伝統が先秦以来連綿と続く。これを思想体系の中核として初めて正面から論じたが、明の王陽明おうようめいである。

陽明学は朱子学に対峙して生まれた。既成の権威、不動の伝統に対抗するには強い原動力が必要となる。そうした反撥的、破壊的な力を担うものとして王陽明は「狂」の精神を提唱した。

「狂」はもともと孔子が説いたものである。進取の気として是認された概念であり、しかも保守的、体制的な志向を非とするため、朱子学に批判的な姿勢を示すには好都合な概念であった。

(一) 「狂者の胸次に做り得たり」

『王文成公全書』(以下『全書』と略記)巻三で、王陽明52歳の年に心境に根本的な変化があったことを表白している。

南都なんとに在りし已前いぜんは、尚お些子いささか郷愿きょうげんの意思在る有り。我今の良知を信じ得て、真是真非しんぜしんぴ、手にまかせて行いき、更に些かの覆蔵ふくぞうけず。我今はじめての狂者の胸次にり得たり。天下の人をしてすべて我が行いは言をおおわずとわしむるもまん。

王陽明自らの内にあった「郷愿」的志向を払拭し、「良知」に従い、天下の人々に何と非難されようとも意に介さないという「狂者」の心境になり得たと語っている。

ここの「狂者」は、『論語』「子路」篇に、「中行ちゅうこうを得て之にくみせずんば必ずや狂狷きょうけんか。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり」とあるように、理想的な「中行」(=中庸)の人が得られない時に求めるべき者とされる「狂狷」の士のことを言う。「狂者」は進取の気を抱く情熱家、「狷者」は堅く信念を守る頑固者である。

一方、「狂狷」と正反対なのが「郷愿」である。「郷愿」は世俗に迎合する常識人、体制に阿る偽善者であり、孔子は「徳の賊」と呼んで忌み嫌った。

南京滞在期を境に、王陽明は孔子が唱えた「狂」の精神に立ち返り、朱子学の権威と伝統に対する畏れも憚りも捨て去り、世間の非難も一切顧慮しないという非妥協的な姿勢を打ち出すのである。

(二) 「狂を病み心を喪う」

朱子学者羅欽順らきんじゅんからの批判に答えた書簡「答羅整庵少宰書」(『全書』巻二)は、次のように綴っている。

世を挙げて恬然てんぜんとして以てはしるに、独り首をましめ額をせばめて以て憂と為す。此れ其の狂を病み心をうしなうに非ずんば、殆ど必ず誠に大いに苦しき者の其の中に隠るる有らん。

世の趨勢に逆らい、独り憂いの涙を流して孤軍奮闘する己の姿を「狂を病み心を喪う」者と自嘲的に語っている。

しかしながら、王陽明にとっては、世の人々に「狂」と誹謗されるのはむしろ望むところであった。「狂」は朱子学を奉じる世の儒者たちと一線を画す立場を示すものであり、求道の意気の盛んなさま、使命感に駆られてやむにやまれぬさまを顕示するものであった。

(三) 「狂に止まること無かれ」

『全書』「年譜」嘉靖三年八月の条で、王陽明は門人らにこう語っている。

孔子ちんに在りて帰るを思うは、以て之をさいして道に入らしめんとするのみ。諸君の講学するは、但だ未だ此の意を得ざるを患うるのみ。正に好く精詣せいけい力造りきぞうし以て道に至らんことを求めよ。一見を以て自ら足れりとして終に狂にとどまること無かれ。

この一節は、『論語』「公冶長」篇に見える逸話を踏まえている。孔子は諸国を巡歴して陳に滞在した際、「帰らんか、帰らんか。吾が党の小子は狂簡きょうかんなり。斐然ひぜんとしてあやを成すも、之を裁する所以ゆえんを知らず」と語り、魯に帰って郷里の若者たちの教育に専念する意向を表した。

王陽明は、自分の門人たちを魯の「狂簡」の若者になぞらえて、「狂に止まること無かれ」と訓示を与えている。

「狂簡」は、志はあってもまだ粗削りな状態、修道者として未完成の状態を言う。王陽明は、「狂」のままで満足することなく、聖人の道に入るために精一杯の努力を重ねるよう門人たちに諭している。

王陽明から陽明学左派へ

王陽明門下は右派と左派に分けられるが、陽明学の真髄を伝え、明末清初の思潮に大きな影響を与えたのは左派であった。左派の中心人物は、王龍溪おうりゅうけい王心斎おうしんさいである。異端視されていた陽明学左派は、次第に反伝統・反体制の傾向を強めてゆき、その極点に位置するのが李卓吾りたくごである。

「狂」は「郷愿」と対峙するものとして孔子が是認していたものであるが、その反骨精神が過度に強く打ち出されると、体制派の儒者たちには甚だ厄介な存在となる。陽明学左派は、異端視され危険思想と扱われるようになる。
当時、体制派の御用学者が陽明学左派を「狂」と呼ぶ時、それは、「郷愿」の対極としての褒意ではなく、狂妄・狂誕を意味する貶意であった。

王龍溪の「狂」

『王龍溪全集』巻一「與梅純甫問答」に、「狂者」「狷者」「郷愿」の区別を論じた一節がある。

狂者の意は只だ是れ聖人とらんことをもとむるのみ。其の行いおおわざること有り。是れ病を受くる処なりと雖も、然れども其の心事は光明超脱にして、些子いささか蓋蔵迴護がいぞうかいごさず。狷者は能く謹みて守ると雖も、未だ必ず聖人と做らんとの志をべんじ得ず。其の恥を知りいやしくもせざるを以て激発開展せしめて以て道に入るべし。の郷愿のごときは、狂ならず狷ならず、流に同じくしに合し、世間と異を立てずして、聖人の混俗包荒こんぞくほうこうかたどおわる。

ここでは、孔孟の言、王陽明の言を踏襲し、「狂」と「狷」を標榜し、「郷愿」を世俗に迎合する「不狂不狷」の徒として退けている。

この一節で注目すべきは、「聖人と做る」ことに関して、「狂者」がその意志を明確に持っているのに対して、「狷者」は必ずしもそうではないと述べている点である。聖人となる営みにおいて、両者の間に一線が引かれており、王龍溪の「狂者」偏重の傾向が見て取れる。王龍溪は、「狂者」を「郷愿」と対峙させ、また「狷者」とも区別をしながら、「狂」こそが「聖」に入る真の道であることを説いている。
 

李卓吾の「狂」

李卓吾は、書簡「與耿司寇告別」(『焚書』巻一)の中で、「狂者」と「狷者」について次のように述べている。

狂者は、故襲こしゅうを踏まず、往跡おうせきまず、見識高し。所謂鳳凰の千仞せんじんの上をくるが如し。誰か能く之に当たらんや。而れども凡鳥の平常、己と均しく物類に於いて同じきを信ぜず。狷者は、一の不義を行い一の不辜ふこを殺さば、天下を得るとも為さず。せいともがらの如く、其の守り定かなり。所謂虎豹山に在らば百獣震恐す。誰か敢えて之を犯さんや。

「狂者」は、因襲を踏むことなく、旧来の価値観に拠らずに行動する見識の高い者、壮大な志を抱いた者であるとしている。一方、「狷者」は、些細なことでもそれが不義であれば決して行わないという節義を持った者であるとしている。

この書簡の中で、李卓吾は「狂」と「狷」の両者を同等の讃辞を以て称えている。「狂」と「狷」に優劣をつけずに並べて述べている点は、王龍溪が両者に序列を与えたのと異っている。

こうした「狂」と「狷」の二元的な捉え方は、「樂克論がっこくろん」(『蔵書』巻三十二)に顕著に表れている。

凡そ人の生まるるや、陰を負いて陽を抱く。陽は軽く清みて直上す、故に之を得れば則ち狂り。陰は堅く凝りて執固しつこ、故に之を得れば則ち狷為り。

「狂」と「狷」の違いを陰陽の気によるものとし、陽気を得た者が「狂」、陰気を得た者が「狷」であるとしている。「狂」と「狷」をこうした陰陽二気論に則して説く発想は、従来の儒家の言説には見られない。

そして下文に、歴史上の重要人物の中で、「狂」とすべき人物と「狷」とすべき人物をそれぞれ分けて列挙している。

「狂」として、曾點・柳下恵・堯・周文王・微子・箕子・管仲・陶朱・張良・荘子・列子・曹参・荀子・陶淵明・東方朔・阮籍・劉伶らの名を挙げ、「狷」として、曾参・伯夷・伊尹・舜・禹・湯王・武王・姜太公・周公・召公・比干・楊朱・伍子胥・屈原・藺相如らを挙げている。

さらに、詩人文人の中から、「狂」として、李白・王維・柳宗元・司馬相如・蘇軾らの名を挙げ、「狷」として、杜甫・孟浩然・韓愈・司馬遷・蘇轍らを挙げている。

こうして李卓吾は、古代の聖賢、明君名臣、英雄豪傑、騒人墨客など、あらゆる分野における卓越した人物を「狂」と「狷」とに呼び分けた。誰を如何なる理由で「狂」とし、あるいは「狷」とするか、評価の基準は従来の一般通念とは大きく異なるところがあり、李卓吾独自の冷徹な歴史観を呈示している。

*本記事は、過去に投稿した以下の記事を合併して簡略にしたものである。


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