見出し画像

「頑張って」の文化

 「みなさん、どうか頑張らないでください」

 まだ現役だった或る年、卒業生諸君に向かって、この言葉を贈ったことがある。

 「頑張る」は、頑なに突っ張ることだ、無理をするのは人間本来の生き方ではない云々、と老荘思想の講釈みたいな話をした覚えがある。

 案の定、横にいた熱血漢の同僚の顰蹙を買ってしまった。

 まあ、それはいいとして、恥ずかしながら、この時わたしは大きな勘違いをしていた。

 「頑張る」の「頑」は、頑なという意味ではなく、ただの当て字だということを随分あとになって知った。

 「頑張る」の語源については、二つの説があるらしい。

 一つは、「目をつける」「見張る」という意味の「眼張る(がんはる)」が転じて「がんばる」になったとする説。

 もう一つは、「自分の考えを押し通す」という意味の「我に張る(がにはる)」が転じて「がんばる」になったとする説。

 いずれにせよ、もともとは、威圧的であったり、強情であったり、あまり感じのいい言葉ではなかった。

 いつ頃からか、「がん」に「頑」が当てられるようになり、意味も「困難に耐えて努力する」「我慢してやり抜く」というように変わっていった。

 そして、忍耐を美徳とする勤勉な日本人にとっては、「頑張る」ことは、無条件で良いこととされている。

 スポーツ観戦で応援したり、受験生を激励したりする時、「頑張れ!」と声をかけるが、言葉通りでは、「我慢しろ!」「無理しろ!」と言っていることになる。

 むろん、これにケチをつける気は毛頭無いが、どこか日本らしい精神主義的な発想であるようには思う。

 そこで、試しに、次のような会話文を自動翻訳にかけてみた。

甲:これから面接に行くんだ。
乙:あ、そうなんだ。頑張って!

 Chat GPT 、DeepL、Google Translate で、それぞれ中国語と英語に訳してみると、以下のようになった。

Chat GPT

甲:我现在要去面试。
乙:哦,是吗?加油!

A:I'm going for an interview now.
B:Oh, really?  Good luck!

DeepL

甲:我现在要去面试。
乙:哦,我明白了。 祝你好运!

A: I'm going for an interview now.
B: Oh, I see.  Good luck!

Google Translate

甲:我正要去面试。
乙:噢,是这样。尽力而为!

A: I'm about to go for an interview.
B: Oh, that's right.  Do your best!

 中国語では、「加油」が定番だ。
「ガソリンを足せ」「もっと勢いをつけろ」という意味だ。

「祝你好运」は、英語の Good luck からの訳のように聞こえる。
「尽力而为」は、文語的表現で、日常会話ではあまり使わない。

 英語では、Good luck! (幸運を祈る)と Do your best! (最善を尽くせ)の他にも、実際の会話では、
  Go for it! (よし、行け)
  You can do it! (君ならできる)
  Take it easy! (気楽にやりなよ)
など、時と場合によって、いろいろな言い方がある。

 日本語に比べると、中国語も英語も、ポジティブな発想で、肩の力が抜けている感じがある。

 面接に向かう人に対して「頑張れ」(忍耐しろ)と言うのと、Take it easy!(気楽にやりなよ)と言うのでは、発想が正反対だ。

 日本人は、どうやら、心にゆとりを持つということが苦手な民族であるようだ。仕事の仕方も、休暇の過ごし方も、どこか「せかせか」「ピリピリ」したところがある。

 言い古された文句だが、「忙」は「心を亡くす」と書く。
 社会人になると、学生時代の何倍も忙しくなる。忙しさに慣れてしまうと、何かもっと大切なものをつい見失いがちになる。

 社会に出れば、否が応でも頑張らなくてはならない状況が何度も訪れる。だから、あまり頑張りすぎると、ポッキリ折れてしまう。

 ただでさえストレスの多い現代社会。心のバランスを崩した人に向かって「頑張れ」は、プレッシャーにしかならない。鬱の患者に「頑張れ」は禁句とされる所以だ。

 あの日、放っておいても頑張るに決まっている優秀な卒業生には、まあ、あまり頑張らずに、ゆとりを持って、というメッセージのつもりだった。

 しかし、「頑張らない」というのは、実は、なかなか難しい。
 特に、生真面目な人間にとっては、「頑張らない」を実践するのは容易ではない。

 もし、また卒業生の前で話をする機会があったら(あるはずはないが)、何と言ったらいいだろうか。

 「頑張らないように頑張ってください」

と言ったら、また顰蹙を買うにちがいない。




いいなと思ったら応援しよう!