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始皇帝と仙薬~飽くなき「不老長生」の妄執
天下統一を果たし、この世で欲しい物は全て手に入れた始皇帝が次に求めたものは「不老長生」であった。
不老長生は、始皇帝にとって「夢」とか「願望」とかと言うものではなく、正真正銘の「本気」であった。
今でこそ人は「妄執」と片付けるが、当の本人は大真面目であった。
始皇帝はただ「いつまでも生きていたい」と願ったわけではなく、自らが「神」になるためには「不老不死」が必要不可欠の条件だったのである。
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前221年に天下を統一すると、秦王政は「始皇帝」を称し、法の整備、郡県制の施行、度量衡・貨幣・文字の統一など諸策を繰り出し、焚書坑儒で言論を弾圧し、良くも悪くも、のち 2,000 年余り延々と続く専制君主国家の礎を築いた。
その傍ら、始皇帝が常に傾注していたのが、神仙の探求と仙薬の獲得であり、年を重ねる毎にその執着の度合いを増していった。
前219年、始皇帝は東方へ巡幸し、泰山にて封禅の儀を挙行した。
その後、さらに東へ進んで斉の地を訪れる。
『史記』の「秦始皇本紀」には、次のように記されている。
斉人徐市等、上書して言う、「海中に三神山有り、 名づけて蓬莱・方丈・瀛洲と曰う。僊人、之に居る。請う、斎戒し、童男女と与に之を求むるを得んことを」と。是に於いて徐市をして童男女数千人を発し、 海に入りて僊人を求めしむ。
斉の人、徐市らが書を奉った。「海の彼方に三神山がございまして、名を蓬莱、方丈、瀛洲と呼びます。そこには仙人が棲んでおります。どうか斎戒して身を清めた上で、男女の童子と共に捜し求めに行かせていただきたい。」そこで、始皇帝は、徐市に男女の童子数千人を連れて海に出て仙人を捜し求めさせることにした。
徐市(徐福とも)は、方士、すなわち方術士、呪術師である。
この時代では、方士の主な役目は、仙人を捜して不老長生の仙薬を手に入れることであった。後世は、錬丹術と言い、方士自身が仙薬を製造するようになる。
方士の多くは、渤海に面した斉と燕の出身であった。渤海の沿岸地方には、古くから海上に神山があるという言い伝えがある。海上に浮かんだ蜃気楼が生んだ伝説とも言われている。
前215年、始皇帝は北方の辺境を巡った後、都咸陽に戻った。そこへ、方士の廬生が謁見する。
燕人盧生、使いして海に入りて還り、鬼神の事を以て、因りて録図書を奏す。曰く、「秦を亡ぼす者は胡なり」と。始皇乃ち将軍蒙恬をして 兵三十万人を発し、北のかた胡を撃たしめ、河南の地を略取す。
燕の人、盧生は、使者として海に出た後に帰還し、鬼神のお告げを受けたとして、『録図書』を献上した。そこには、「秦を亡ぼす者は胡である」と記されていた。そこで、始皇帝は将軍蒙恬に30万の兵を率いて胡(北方の蛮族)を攻撃させ、河南の地(今のオルドス地方)を略取した。
廬生が海に出たのは、仙人を捜す任務であった。この頃、始皇帝は、度々、廬生、韓終、侯公、石生ら方士たちに命じて仙人を捜させていた。
廬生が献上した『録図書』は、神託書、すなわち予言書である。
「秦を亡ぼす者は胡なり」とあるのを見て、始皇帝は「胡」を「えびす」と解釈し、北方へ兵を送った。「胡」が自分の息子の胡亥(のちの二世皇帝)を指すことには全く考えが及んでいなかった。
こうして、求仙の思いを益々強めた始皇帝は、方士の言に惑わされ、次第に政においても冷静な判断ができなくなっていた。
方士たちは、始皇帝に信任されているのをよいことに、やがて奇天烈な進言をするようになる。
盧生、始皇に説きて曰く、「臣等、 芝・奇薬・仙者を求むるに、常に遇わず。物の之を害する者有るに類たり。方中に『人主は時に微行を為し、 以て悪鬼を辟く。悪鬼辟くれば真人至る。人主の居る所、人臣之を知らば、則ち神に害有り』と。真人は水に入れども濡れず、火に入れども爇 けず。雲気を陵ぎ、天地と与に久長なり。今、上は 天下を治むるも、未だ恬淡なること能わず。願わくは上の居る所の宮、人をして知らしむること毋かれ。然る後、不死の薬は殆ど得可きなり」と。
盧生が始皇帝にこう説いて聞かせた。「わたしくども、霊芝、仙薬、仙人を捜しておりますが、どうしても捜し当てられません。物の怪が邪魔をしているようでございます。方術の中に、『君主は時に隠密行動をし、悪鬼を退散させる。悪鬼がいなくなれば、真人(=仙人)が現れる。君主の居る場所を臣下が知ると、神霊の働きを阻害する』とあります。真人は水に入っても濡れず、火に入っても焼けず、雲を凌いで高く飛翔し、天地と共に長久の存在です。今、陛下は天下を治めておられますが、いまだ恬淡の境地には至っておられません。どうか陛下がどの宮殿におられるかを人に知られないようにしてください。さすれば、不死の薬は得られたも同然でございます。」
そこで、始皇帝は、宮殿間を人に見られないように移動し、居場所を漏らす者がいれば死刑に処した。
こうして、始皇帝は方士たちの言に操られ、ほとんどマインドコントロール状態であった。
天下統一の大業を成し遂げた始皇帝の末路は、滑稽なまでに哀れであった。
始皇帝は、不老長生に妄執する一方、即位間もなく自らの陵墓の造営に着手している。そして、いまだ未発掘の壮大な地下宮殿を築き上げた。
永遠の「生」を希求しつつも、それが叶わない時のために「死」の準備も着々と進めていたのである。
前210年、始皇帝50歳の年、巡幸の途で病死した。丞相の李斯と宦官の趙高は、内乱を危惧してこれを隠匿し、詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自害させた。
遺体を都咸陽まで移送する道中の2ヶ月間、始皇帝の屍は腐臭をまき散らしていた。
末子の胡亥が二世皇帝として即位したが、始皇帝以来の苛政に民衆の怒りが募り、各地で反乱が起こり、始皇帝の没後わずか4年で秦は滅亡した。
かくして、秦による統一国家は、わずか15年で終焉を迎えた。
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