中国人が語る中国人(四)~儒家的生き方、道家的生き方
儒家的生き方、道家的生き方~林語堂 My Country and My People
林語堂(1895~1976)は、中国近代の作家・評論家。清華大学で英語教師を勤めた後、ハーバード大学、ライプチヒ大学に留学。帰国後、北京大学の英語学の教授に就任。36年に渡米し『ニューヨーク・タイムズ』の特別寄稿家となる。47年から3年間、ユネスコ芸術部長としてパリに居住。54年、シンガポールの南洋大学総長に就任。晩年は台湾と香港を往来しながら過ごし、76年、香港で没した。
My Country and My People は、欧米人を対象に中国人の特質について語った英文の著書である。
中国人の15の特徴
これら15の特徴をひっくるめて、あえて一語で総括したという「円熟」は、原文では mellow である。これは、元来、果実やワインが年月を経た結果、「熟して甘い」「芳醇でまろやか」という意味であり、人が年を重ねて丸くなったさまをいう。
つまり、若者の溌剌としたエネルギーではなく、中高年や老人が長年の豊富な人生経験を積んだ結果に得た年の功、生活の知恵であり、若者には真似のできない老練さや狡猾さが含まれる。
強いて言えば、15の特徴の中で、この集約的性質に最も近いものは、6番目に挙げられている「老獪」(原文では old roguery)であろう。
「老獪」と道家思想
「老獪」は、老人と古い歴史を持つ民族が持つ処世術であり、中国人の最も際立った性質であるが、西洋人には最も説明のしにくいものであると林語堂は語っている。そして、「老獪」の背後にあるのが道家思想であると指摘している。
老子は「道」(タオ)を唱えた。「道」とは、自然のあらゆる現象の根底に潜んで万物を生成消滅させる唯一普遍の原理である。人間は「道」に随順して生きるべしとし、「無為自然」すなわち、人為の文明によって失われた本来の自然な生き方を取り戻すことを唱えた。
為政者が人為的な制度や法令によらず、不必要な干渉をせず、「無為」にして治めれば天下は自ずと円満に治まるとする政治論でもあった。
儒家と道家は、中国を代表する二大思想であり、中国の精神文化において、ちょうど陰と陽、表と裏のような関係にある。
両者は極めて対照的な傾向を持つが、中国社会において互いに排除する関係ではなく、むしろ補完的に共存してきた関係にある。相対立しながらも互いに溶け合い綯い交ぜとなって、「中国人の性格」を形成してきたのである。
「偉大なる肯定」と「偉大なる否定」
林語堂は、中国人の性格における本質的な部分は、儒家よりもむしろ道家であると明言している。
つまり、中国人の儒家的性格は、教育によってもたらされた後天的な性格であって、中国人の先天的、本性的な性格は、道家的傾向の方が強いとするのである。
儒家は漢代に国教に定められて以来、中国の社会でつねに表舞台に立ってきた。儒家と道家の関係において、道家はつねに表裏の裏であり、陰陽の陰であり続けた。
儒家がつねに「与党」だとすれば、道家は万年「野党」のようなものであり、いかに支持者が多くとも第一党になることはついになかったのである。
その野党的性格から、道家は何かにつけて儒家の言うことに強く反駁する。儒家は教育や学問を重んじる。すると道家は、教育・学問のみならず、文明そのもの、すなわち人間の文化的営みそのものを根底から否定しようとするのである。
文中の『老子』の引用は、第三十八章からのもので、「道が失われたからこそ徳などというものが現れ、仁が行われないからこそ義などというものが説かれるのだ」という意味である。
第十八章に、「大道廃れて仁義有り。智慧出でて大偽有り。六親和せずして孝慈有り。国家昏乱して忠臣有り」と言うのと同じ主旨であり、アンチ儒家ぶりを存分に発揮している言説である。
牛乳の比喩は、老子の「無為自然」の哲学をわかりやすく現代風にアレンジして説いたものである。道家は、販売許可やら殺菌消毒やらという人為的な処置の加わった人工的産物に対して強い嫌悪感を示す。人為的な文明というものがいかに人間本来のあるべき姿を損なうかを説いているのである。
儒家的生き方、道家的生き方
ここに挙げられた道家を浪漫派とする三つの特質は、いずれも儒家には無いもの、あるいは乏しいものである。
第二に挙げられている文学に関しては、さらに「道家系の文学が儒家的格式に則った厳格な生活に潤いを与え、紋切り型の美辞麗句や陳腐な道徳的説教を並べ立てがちな中国文学に救いを与えている」と語っている。
補完的な関係にある儒家と道家は、道家が儒家に対する「鎮痛薬」であり「安全弁」であるという関係でもある。儒家的な厳格な生き方には、多くの労苦が伴い、また時として閉塞感や抑圧感をも伴うのである。
儒家的な生き方の典型が、「役人として仕官し、立身出世を志し、天下国家のために身を捧げること」であるとすれば、道家の方は、「隠者となって閑居し、世俗を離れ、自然に任せて悠々自適の生活を送ること」である。
儒家的な生き方と道家的な生き方は、中国の知識人における両極端の価値観であり、彼らはこの双方の価値観に対して願望を抱いていた。若い頃は青雲の志を抱いて儒家的に生き、後半生は挫折を味わって道家的に暮らすという者もいる。
中国人の人生観や処世観において、タテマエの部分は儒家的であり、ホンネの部分は道家的である、という言い方もできるであろう。
中国人は一筋縄ではいかない。彼らは二つの生き方を自らの境遇に合わせて巧みに使い分けることのできるしたたかな民族なのである。
*本記事は、以下の記事のダイジェスト版である。