「癖」(二)~「オタク」列伝
『癖顚小史』
『癖顚小史』は、明末の「癖」を称揚する思潮の中で生まれた書物である。
(一)『癖顚小史』の編纂
『癖顚小史』の撰者は、華淑(雅号は聞道人)、明末の商業出版に携わった文人である。
華淑の「癖顚史跋」には、次のような一節がある。
ここでは、孔孟の言に見える「郷愿」「狂狷」を引き合いに出して、「顚」を「狂」に、「癖」を「狷」にそれぞれなぞらえている。
凡庸な世俗を超脱した「至性」有るもの、「真色」有るものとして、「癖」と「顚」を美化し正当化して、本書の価値を訴えた一文である。
本書には、出版界の有力者湯賓尹の「小引」(前書き)が付されている。
「癖」のさまは「狂」や「痴」の如くであり、世俗の常識で測ることのできない心態であると語っている。
「士は癖無きを患うるのみ」とあるフレーズは、「人は癖無かるべからず」「語言に味無く面目憎むべき人は皆癖無きの人のみ」「殊癖有りて終身易えざれば便ち是れ名士なり」など、前回の投稿で引いた袁宏道の一連の発言と主旨を同じくするものである。
(二)『癖顚小史』の本文と袁評
『癖顚小史』の本文は、歴代の「癖」にまつわる人物の逸話を集めている。今風に言えば「オタク列伝」みたいなものである。
以下に、目次の項目名及び各項目で取り上げられている人物名を全挙する。
ここに挙げられた諸々の「癖」は、動植物・器物・食物などに対する異常な嗜好(例:「馬癖」「茶癖」「石癖」)、物事に対する極端な執着(例:「書癖」「錢癖」「詩癖」)、行為における病的な性癖や常習性(例:「哭癖」「潔癖」「妬癖」)など多種多様である。
巻頭第一篇の「笑癖」は、次のような話である。
晋の詩人陸雲の「笑疾」を語った逸話であるが、これは『晉書』「陸雲傳」の記載に基づいている。
第二篇以下も、杜預の「左傳癖」が『晉書』「杜預傳」に、簡文帝の「詩癖」が『梁書』「簡文帝紀」に、米芾の「潔癖」が『宋史』「米芾傳」に基づくというように、大半の話が正史から採られている。
また、王済の「馬癖」、嵆康の「鍛癖」、羅友の「乞癖」が、それぞれ『世説新語』の「言語」「簡傲」「任誕」各篇に拠るというように、逸話集の類から引いているものも多い。
そして、すべての篇に対して、袁宏道の「評語」が付されている。
以下に、「癖」について見解を述べているものをいくつか挙げる。
これらの「評語」の中で、袁宏道は繰り返し「韻」に言及している。
「癖」は「雅」とは言えずとも「韻」を帯びたものであるとして、「俗」との距離を意識した発言をしている。
明末の文人たちにとって、日常生活において然るべき「癖」を持つということは、一種の人生美学であり、またステータスシンボルでもあった。
高雅な「幽人韻士」の「癖」は、名利に汲々たる俗人の「癖」とは自ずと異なるものとされたのである。
(三)『癖顚小史』の文献的意義
『癖顚小史』は、明末の商業出版の隆盛に伴って生まれたものであり、これと編纂意図の似通った書物が同時代にいくつも刊行されている。
『古今譚概』の「癖嗜部」は、部分的に『癖顚小史』と話が重複している。『情史類略』の「癡情篇」は、対象が物と人とで異なるのみで、『癖顚小史』と同類のものである。
このように、当時、類似した書物が数多く出版されていた状況が窺えるが、これらの書物の文献的価値は、伝統的見地からは甚だ低いものであった。
『癖顚小史』は、良く言えば、「癖」の文化の集大成であるが、悪く言えば、諸々の「癖」にまつわるエピソードを他書から抜き書きして寄せ集めただけのものである。
しかも、本文わずか数十葉、誤字・脱字があり、目次と本文の齟齬もあり、書物としては粗雑なものと言わざるを得ない。
「笑癖」を第一篇に置いている点などは、とにかく人の興味を引いて売れればよいという商業ベースの俗書の類であることを物語っている。
『癖顚小史』巻頭の「題辭」と各篇の「評語」は袁宏道によるものとされているが、実は、このこと自体に疑いを入れる余地がある。
袁宏道は著名な文人であり、「癖」を称揚した人物としても知られていた。
そこで、『癖顚小史』の出版に際して、箔をつけるために袁宏道の名前を持ち出した偽託である可能性が高い。
少なくとも『癖顚小史』に関することは、弟袁中道の「中郞先生行狀」なども含めて、袁宏道本人及びその周辺の文献資料には一切出てこない。
しかしながら、ここで『癖顚小史』の「題辭」と「評語」が本当に袁宏道によるものか否かを論じることは重要な問題ではない。
『癖顚小史』の如き奇天烈な書物が出版されたということ自体が、明末という時代思潮を象徴的に映し出した一つの現象として興味深いことである。
明末清初の「癖」の文化
「癖」の文化は、明末の士大夫、とりわけ江南の文人の世界に普く見られたものであり、文人精神の発露として「癖」を語ったのは袁宏道独りに限られるわけではない。
袁宏道は、個性至上主義の観点から、人間論として「癖」を唱道した理論家であったが、袁宏道より約30年後に生まれた張岱は、実際にそうした耽美的生活を送った「癖」の実践者であった。
張岱については前回の投稿で触れたが、『陶庵夢憶』を紐解けば、彼がいかに多種多様の趣味を持つ有閑文人であったかがわかる。
こうして明末に醸成された「癖」の文化は、清初の文人たちにも受け継がれていった。
張潮の『幽夢影』に、次のような一節がある。
また、廬存心の『蠟談』に、次のようにある。
これらは、袁宏道の「癖」や「疵」についての一連の発言を敷衍し美化したかのような文章である。
李漁の『閒情偶寄』「頤養部」には、次のようにある。
ここに至って、そもそも疾病の類であった「癖」が、ついに疾病を治癒する良薬にまで祭り上げられたのである。
付: 『癖顚小史』書影(抜粋)
*本記事は以前投稿した以下の記事の後半を簡略に改編したものである。