「恋せぬふたり」に憧れる
「私と恋愛感情抜きで家族になりませんか!」
このセリフを聞いた瞬間、びびっ…!と、体中に衝撃が走ったような感覚になったのを今でも覚えている。
私が「アロマンティック・アセクシャル」という言葉に出会ったのは、大学1年生の時。
「アロマンティック」は「他者に対して、恋愛感情を持たない/持ちにくい」
「アセクシャル」は「他者に対して、性的感情を持たない/持ちにくい」
という意味を持つらしい。
「恋せぬふたり」という不思議なタイトルに惹かれて何気なく見始めたドラマだったけど、咲子や高橋さんの思いに共感したり、新しい気付きをもらったりしているうちに、いつしか深くのめりこんでた。
ここからは咲子みたいに「自分語り」します。
自分に恋愛的な好意を持たれたとたん、一緒にいたくなくなるというか。
一緒に過ごす時間が心地よくて、一緒にいる時の空気感が好きで、何でも話せて、楽しくて。今のままの関係性が一番いいのに。
でも、友達とは違ういわゆる特別な関係性に憧れる気持ちもある。そこに必ずしも性愛は必要なのかな。自分はいらないな。
いろんな愛の形があるのに、男女ってだけですぐひとつの関係性に結び付けられてしまう今の状況がすごく複雑。
そこに複雑さを抱えているのにもかかわらず、自分もその固定観念に縛られていることをひしひしと感じてすごく複雑になる。
難しい。
自分はロマンティック・アセクシャルなのかなと思う。そう言いきれるかは分からないけど。
いわゆる恋愛感情はなんとなく分かるし、キュンとする気持ちも分かる。
時にはドキドキしたいなと思うこともあるし、人から人に向けて発される好意もある程度くみ取ることはできる。
でもこれは周りに「恋愛」関連のコンテンツが溢れていて、自分自身幼い頃から触れていたからなんだろうな、とも思う。
中学生の時なんて、少女漫画のような恋愛をすることが当たり前なんだと思ってたし、なんなら淡い憧れすらあった(気もする)。
自分が出会ったことのない、知らない世界だから。「恋」をすることで一歩大人に近づいたような気がしていたのかもしれない。
でも、当たり前だけどフィクションと現実は全く違う。実際の恋愛はいっぱいいっぱいで、大変で、複雑で、めんどくさくて。
当時の自分に「今、楽しい?」って聞いても、「つらい。楽しくない。」って答えただろうなって思う。「楽しい」よりも「つらい」が勝ってしまった恋だった。「恋」と呼べるものだったのかも分からないけど。
私はすごく人に恵まれていると思う。
「類は友を呼ぶ」ということわざはその通りで、「恋愛」に興味を持たない私の周りには「恋愛」について語る友人がものすごく少ない。
だからこそ、余計に不安になる時がある。
私だけが「恋」「愛」に向き合えていないのかな?
自分はこのまま、「恋」について知らないまま生きていくのかな?
「愛」というものが何か分からないまま生きていくのかな?
幸い、この手の話を相談出来る友人が何人かはいて、その友人たちには「アセクシャル」の話も出来る。
アセクシャルを自認して誰かに打ち明けようと思った時、その初めてに選んだ親友は真剣に私に向き合い、性自認と性的指向についての話に耳を傾けてくれた。
あの時はほんとに嬉しかったなぁ。そっと気持ちに寄り添って、最後まで話を聞いてくれてありがとう。
「恋愛感情抜きの家族」いいなぁ。
「プラトニックな関係」っていうのかな?今はすごく咲子と高橋さんみたいな関係性に憧れてる。
アセクシャルを自認しつつも、結婚してみたいし、子どももいたら楽しいだろうなぁとも思う。
でも、これからも自分の感性は変わるかもしれない。変動するからこそ「性自認」とか「性的指向」ってすごく難しいし、センシティブな話題なんだよね。
だからこそ、これからも丁寧に自分の気持ちに向き合っていきたいな。
まずは私に気づきと勇気をくれた「恋せぬふたり」ありがとう。
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