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マグナ・カルタ 〜The prototype of constitution


1 立憲主義


 高校くらいで習うのだろうか?マグナ・カルタというと、世界最古の憲法である。
 習ったころは、受験のための暗記用語が一つ増えたくらいの意識だったが、30歳を過ぎて、立ち読みした本(痛快!憲法学:小室直樹著)から、この法典が、世界最古の憲法と言われる本当の理由を知り、それ以来、歴史上の人物のように、この法典が一推しである。

 一般の人は、憲法についてどのくらい理解しているのだろうか?
 私のそれまでの理解では、「法律の中の法律」「国のあらましを宣言したもの」といった感覚で、漠然と「法律の中で最も強い法律」と考えていた。
 たしかに憲法はその国の最高法規であり、これに反する法律は無効である。
 しかし、その知識だけでは、憲法の本質を理解しているとは言えない。

 憲法とは何か?
 憲法とは国家権力の濫用を防ぐため、これを制限もしくは統制するために存在する。
 これを「立憲主義」と言い、憲法を議論する上では絶対不可欠な認識である。

 しかし、一般の認識として、これを理解している人がいかほどいるだろうか?
 僭越ながら、私は一般に比べ、法律を多用する職業に就いているため、多少憲法については知識を持たされている方である。さらに組織内の幹部養成学校を目指した時は、その入試試験において、毎年一割以上は憲法関連の問題が出るため、絶対落とせない分野だった事もあり、その103条を暗記するくらいの勢いで勉強し、文言だけでなく、9条に関連する砂川事件などの判例の深い考察や、10条から30条に連なる「何々の自由」関連の解釈にも、かなり精通していたと思う。
 それなのに、実際にはこの「立憲主義」という考え方については、この本を読むまで知らなかった。まるで、中高大で8年間英語を勉強したのに、実際には道案内すらできないのと同じような挫折感を喰らってしまった。
 しかも、それ以降、私は注意深く報道番組や知識人の発言の中から「立憲主義」というフレーズを聞き取ろうとしたが、ほとんど聞くことはなく、当然議論もされなかった。具体的には、主要なニュース番組や政治討論会を視聴しても、その言葉が話題に上ることはほとんどなかった。つまり、私だけが勉強の仕方を誤ったのではなく、少なくともこの国では、立憲主義という思想や理解が定着していないのだ。
 東アジアの緊張が高まる中、憲法改正を巡る議論が取りざたされる機会は増えている。それなのに、こんな根本原理が無視されていて大丈夫なのだろうか?

 表題のマグナ・カルタは、そもそも、1215年、時のイングランド王ジョン王に対し、統治を受ける貴族や地主が、王の権利の濫用を防ぐために、その権力の範囲を規定し、権力を制限するために作成されたものである。
 その後、アメリカ独立宣言、アメリカ合衆国憲法の起草においても多大な影響を及ぼし、我が国の日本国憲法においても、立憲主義の理念は脈々と引き継がれてきた。
 マグナ・カルタは、六十三箇条からなり、ジョン王が、「朕は、これこれができて、これこれはできない。」「朕の臣(貴族)には、これこれの権利を保障する。全ての自由人(奴隷でない人)には、これこれの権利を保障する。」という表現で、綴られている。
 まさに、国家権力の最高位にある「王」の権限を統制する目的を純粋に表している。
 今の憲法は、複雑になりすぎて、ちょっとわかりにくいのだが、このprototype(原型)を読んでから、今の憲法を読み直してみると、その目的がよくわかる。

 遅れる事400年、同じイングランドからトマス・ホッブスが登場し、人類社会における国家権力の必要性を唱えつつも、その著書の題名「リヴァイアサン」は、伝説の怪物の名であり、国家権力を歯止めなく認めると手のつけられない怪物となる事を示した。

 国家権力には、憲法という鎖が必要なのである。(←ここ試験に出ますよ。)

2 憲法改正論


 上記の考えを踏まえると、憲法を改正するということは、国という権力に架けた鎖を緩める、または強めることを意味する。
 日本国憲法制定以降、ほとんど与党を担っている自民党が、日本国憲法を改正するために結成されたことは、知られているようで知られていない。結成当初、自民党は日本の防衛力強化や自主憲法の制定を目指していた。
 国民が治安や国際情勢の不安から強力な国家権力を求めるならば、憲法改正も正しいが、単に自民党が選挙で圧勝したからといって、その選挙の争点として憲法改正が論議されていなければ、簡単に改正はできない。
 考えて欲しい。日本国憲法をマグナ・カルタに置き換えた場合、イングランド王(ジョン王)の立場にあるのは誰か?
 「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。(憲法41条)」とある。この国の最高権力機関は天皇でも総理大臣でもなく、国会議員である。彼らの権力を制限・統制し、「リヴァイアサン」にしないのが日本国憲法の役目であり、そのド権力側から「鎖を外してくれ~」と言っている違和感を感じてほしい。
 国民からのムーブメントが国会議員を動かし、憲法改正の論議が始まるなら筋が通るが、現状そうは見えない。
 確かに、現在世界は紛争だらけで、かつて日本は国連の平和維持活動(PKO)で「金は出すが、人は出さない」と揶揄された。アメリカは当初自衛力のみを求めていたが、今や日本の軍事力は世界で7位か8位だ。
 「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(ご存知、憲法9条第1項)」となっており、相手が自国領内で軍事行動を起こさない限り、武力は行使できない。
 では、台湾有事が起きたらどうするか?中国は自国領内の問題として、内政干渉だと主張するが、台湾は独立国として救援を乞うだろう。日本としても台湾を失うことは厳しい。台湾の存在のおかげで、中国と直接国境の接しない海域が有り、幾らかの紛争を防いでいる。
 さて、このような国境の接触を避けるのに役立つ、やや味方気味の地域を、緩衝地帯というが、これを守ることは自衛に含まれるのだろうか?
 かつて、日本は、朝鮮半島を併合し、中国北部に満州国を建国した。この行為について、多くの学者が、領土拡大が目的ではなく、日本がロシアを恐れて、緩衝地帯を設けようとしたものだと主張している。
 当時の中国の蒋介石ですら満州国までは「自衛」と捉えていたが、万里の長城を南下した時から「侵略」に切り替わったという記録が残っている。
 そのような曖昧な「自衛」の概念が生み出したのが、かの太平洋戦争であり、現在までに起きている紛争の多くがこの「自衛」の拡大解釈に起因している。集団的自衛、緊急事態的自衛、自国民保護。「自衛」の名の下に戦場となった地域は数知れない。緩衝地帯にも人は住んでいる。その人達は、割れ物を包むプチプチか?
 領土外での武力行使はもちろん、紛争を未然に防ぐためという威嚇目的の駐留も、立派な武力行使だ。
 台湾有事に武力で関与すれば、明確に憲法9条に違反する。「自衛」という稚拙な言い回しは17歳までにしてほしい。しかし、アメリカは反撃するだろう。もちろん、日本領土内の基地を使用するだろう。この日本領土内の米軍基地を守ることは自衛か?いや、やっぱり憲法9条違反である。

 憲法はその国の行動を制限するものであり、国が自国の憲法を破ることは「法律を守らない、約束を守れない国」と宣言することと同じである。
 第一次大戦後のドイツは、ワイマール憲法の下、民主的選挙を経てナチスが政権を取り、憲法改正条項に準じて、これを改正し、独裁体制を築いたが、憲法違反は犯していない。
 だから、日本も憲法を改正して国外に軍隊を派遣できるようにしたいわけだ。
 しかし、言っておくが、政治家さんたちはまだ真面目な方だ。
 憲法違反を犯した場合、責任を負うのは誰か?日本の最高責任者つまり王様は誰か?
 そう、ここが大事、それは天皇でもなければ国権の最高機関である国会でもない。主権を有する私たち国民がこの国の王である。従って、国外に軍隊を派遣すると日本国と日本国民が「法律を守らない、約束を守れない人々」と断ぜられるわけだ
 投票にも行かず、国のやることはお偉いさんに任せておけば良いと、観たい動画だけを観ている主権者は、不真面目極まりないので、もうちょっと王様の仕事をして欲しい。


3 GHQ押し付け論


 しかしながら、「日本国憲法は、アメリカ主導のGHQが作成し、日本に押し付けたものである」という「GHQ押し付け論」が広く支持されている。特に自民党員を中心に、この意見は根強く存在する。
 GHQは日本の民主化を目指し憲法改正案を要求したが、当時の日本政府は明治憲法と大差ない案を提出した。これに対し、マッカーサーは反発し、GHQが独自に憲法草案を作成することになった。この草案は、天皇制の維持、封建制度の廃止、武力行使の放棄という三原則に基づいており、日本政府に提示された。
 GHQ民政局には多くの女性職員が関与し、彼女たちが短期間で憲法草案を作成したとされている。押し付け論者は、彼女たちが専門教育を受けていないため、まともな憲法が作れるはずがないと主張する。しかし、私は彼女たちこそが民主的憲法を作成する上で重要な役割を果たしたと考えている。
 例えば、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない。」(憲法24条)は、彼女たちの希望によって盛り込まれた。当時、女性の地位は低く、このような条文が他国の憲法にはなかったのである。
 この憲法は日本政府が迎合したものでもなく、アメリカの高官が強引に押し付けたものでもない。アメリカの一般庶民、特に女性が、人は生まれながらにしてこの程度の権利は保障されるべきだと考えて作成したものである。
 また、日本国内でもGHQ草案に近い提言をしていた学者が存在した。彼らは民主化と平和を求める風潮を反映し、ワイマール憲法をモデルにした民主的な憲法改正案を提起していた。

 憲法前文はGHQ草案をそのまま採用しているのだが、ここに一般庶民、しかも女性が起草したとは思えない一節がある。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
 何度読んでも震えが走るマニフェストである。

 当時、日本は全土が焦土と化し、貧困に喘いでいた。日本人は「世界平和」どころか「明日をどう生きるか?」で精一杯だったが、彼女たちは日本に崇高な理想を掲げさせた。
 「確かに今は米軍の統治下で、一敗地に塗れてはいるが、この国の民はしぶとい。必ず復活する気でいる。」と信じたのである。
 そして、その予想は的中していた。多くの日本人は、恥辱と焦燥を抱えながらも、「この過ちを繰り返さないことが、300余万人の戦死者への手向けだ」と考えていた。戦後日本は教育を通じて国際平和を希求する民を育て、経済復興を果たした後は憲法前文の理想に基づき国際社会に貢献してきた。

 つまり、この憲法は当時の一般庶民の感覚として民主的な価値観を体現したものであり、GHQの女性職員が日本の未来に期待して作成したものである。「押しつけられた」かどうかを超えて、この敗戦を機に日本がどう変わるべきかを示したものであり、私はそれが正解だったと信じている。

4 されど世界平和は遠きにして


 しかし、GHQの民生局員にも読み違えた点があった。
 世界の方が、これだけの戦災を互いに負いながら、まるで「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」になろうとはしなかった。冷戦の頃、人類は何度も破滅の危機に見舞われ、それが終わったと思ったら、今まで押さえられてきた、さまざまな宗教・文化・民族意識といった価値観がパンドラの箱を開けたように飛び出し、世界は紛争の坩堝と化した。
 第二次大戦の教訓を経て、世界平和のために組織された国際連合の、安全保障理事会(安保理)も、戦勝国5カ国が常任理事国として居座り、強大な「拒否権」を保持しているため、完全に機能不全である。
 特に、苦々しかったのは、2023年。すでにロシアによるウクライナ侵攻が始まっていたが、この時日本は、おそらく世界各国の悲痛な希望も受けて、国連加盟国で最多の12回目という最古参として、安保理事国に選出された。同年には、21世紀の遅れてくる巨人と言われたブラジルがおり、中東の雄、UAE(アラブ首長国連邦)もいた。しかも、日本はこの年、先進7カ国首脳会議(G7)の議長国でもあった。
 まさに憲法前文に掲げたマニュフェストを実行するには格好の機会であった。
 にもかかわらず、当該安保理は、常任理事国の拒否権の濫発により、何事もなす術も無く、その任期は、あと半年を残すのみとなった。
 国連安保理は、80年前の戦勝を誇示する5カ国の独壇場だ。今や、その中の権威主義的2国が、国連とは別格の連合をつくろうなどとも企み出した。
 世界は、このままでは、軍事力こそがものを言う戦国時代になってしまう。
 「いよいよ、専守防衛などと甘っちょろいことは言っていられない。今こそ、軍備拡大を。」とさぞかし、改憲論者は大盛り上がりだろう。

 しかし、国際紛争を解決する手段は、武力行使しかないのだろうか?
 崇高な精神を掲げる我が国は、脳みそがカラカラになるまで知恵を絞り切って、そのほかの道を探さなければならないのではないのか?
 さて、この馬鹿げた紛争絶えない万民ゴリラの世界を日本国民は「是」とできるのか?

5 韓非子


 今から、2000年前、500年の騒乱を続ける中国において、これを治めんと知恵を絞った思想家がいる。名を韓非子という。実際、彼が考案した「法」による統治は、初めて中華を統一した秦の始皇帝に活用され、その後を継いだ漢帝国がこれを完成させ、数百年の安寧の時代を迎える。
 彼は、まず、千差万別のモザイク国家において、すべての国、国民が求める「絶対価値」を求めた。
 現代世界では、「人を殺してはいけない。」「人は生まれながらにして侵されざる基本的人権を有する。」というものが、当然の理性として確立され、「自然法」として絶対視されているのだが、残念なことに、こんな当然の理性も保てない国の方が、多数派かもしれないというのが現状で、まったくお手上げなのである。
 韓非子の直前の思想家、論語を記した孔子も、この「自然法」のように、各国の君主が、当然の理性である「徳」を備えることで、大方の問題は解決すると唱えたが、それでは、戦乱は治まらなかった。
 韓非子は、そのような理性的な世界を期待しなかった。
 「人は、生まれながらにして、利益を欲し、罰を畏れる」。それが、彼のたどり着いた「絶対価値」であった。
 即ち、統治者にとって有益な行動をするものには、「賞」を与え、不利益な行動を行うものには、「罰」を与える。これを、「法」というものとして制定し、統治者もまた、決してこれに反する行動は行わないと約束する。こうして、被統治者に、未来予知可能性を与える。さすれば、被統治者は、賞を得られる行為を行い、罰を受ける行為を行わない。
 これを「法治主義」と言い、現代世界の大半の国家で、採用されている。
 ただ、世の中はそれほど単純ではない。権威主義国家・独裁国家では、しばしば統治者が法に定められた約束を破り、法治主義の柱である「未来予知性」が時折裏切られるため、これが正常に機能しない。

 なんとか、基本的人権を尊重し、他国の利益を阻害しない、という最低限のルールを守らせる仕組みを構築したいものだ。
 そこで、国連安保理に注目する。
 安保理は、常任理事国によって牛耳られているため、機能不全ではないのか?
 そう、その通り。しかし、これは逆にチャンスかも知れない。
 今、この時、安保理の非常任理事国を10国に増やしても、日本のような、ほとんど常任理事国並みに理事を務めている重鎮を以てしても、何一つ変えられなかった。この事実は、「常任理事国の拒否権がある限り、世界に平和は訪れるどころか、人類の滅亡の要因になりかねない。」ことを強烈に証明したことになる。

 韓非子の説話に、和氏の璧(かしのへき)なるものがある。
 楚の国は、文王が即位した時、両足をおそらく刑罰で切られたと思われる罪人が、山中で岩を抱いて、即位の日から、何日も慟哭し(泣き)続けているという話が噂になった。噂を聞いた文王がその人物にあって話を聞いたところ。「この石は、とても素晴らしい璧(宝石)の原石なのだが、先代の王も、その先代の王も、側近の鑑定士が、これを雑石と鑑定したため、私の足を一本ずつ切ったという。文王は鑑定を省略し、試しにと原石を磨かせたところ名石を得たという。
 その石は、この発見者の名を採り「和氏の璧」と名付けた。
 みなさん、「カンペキ」と書く時、「カンカベ」と書いていませんか?「完璧」。そうこれが、その語源です。

 さあ、日本の安保理事国の任期は、あと半年ある。盛大に慟哭してやろうじゃないか?
 「私たちが主張することは、未来の世界にとって絶対保持すべき、「和氏の璧」なのだ。
 しかし、80年前のカビの生えた戦勝を発足の根拠とする、どうしようもない時代遅れで分からず屋の暴君がのさばっていて、まるで世に出ることができない。
 ウエ~ン!ウエ~ン!(T ^ T)」。
 何のため?それは次のミッションを、より円滑に遂行するためである。

6 mission is possible


 国連憲章第108条「この憲章の改正は、総会の構成国の3分の2の多数で採択され、且つ、安全保障理事会のすべての常任理事国を含む国際連合加盟国の3分の2によって各自の憲法上の手続に従って批准された時に、すべての国際連合加盟国に対して効力を生ずる」と言うわけで、国連憲章の改正には、5つの常任理事国の批准が必要なわけである。従って、一般的には、論理的に不可能(impossible)と解されている。
 されど我に策有り。

 韓非子は、万国万民に共通する絶対価値を探し求めた。さらに、付け加えると、彼は、無駄に怨嗟を生む可能性を持つ「罰」よりも、統治者・被統治者双方が利益をうる可能性の高い「賞」による利益誘導を強く推奨した。
 私も各国が欲しがる「賞」となる絶対価値を探し求め、これに辿り着いた。現在世界における、各国利害を左右する絶対価値とは、武力でも資源でもなく「議決権」だ。
 ただし、私の考える、議決権とは、一国一票というものでなく、「賞」「罰」の規定に沿って、増減するものとするものだ。結局、常任理事国の持つ「拒否権」とは、ただその国だけ過半数の票を持っているに過ぎないと解される。
 例えば、国際平和に貢献するなら、幾票かの議決権を付与する。専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去するという理想を体現する国家は、それを維持するごとに一票付与してもらう。もし、戦後からこの制度が採用されていたら、日本は今頃120票を超える票を持っていただろう。
 逆に、くだらない紛争や他国の利益を阻害したり、基本的人権を侵害したりする国は、経済制裁などという、100年前には無力だとわかっている手段は使用せず、議決権を罰則として減らす。
 常任理事国に国連発足時、200票の票があったとしても、米露中の票は、今頃一桁だったろう。

 日本は、この制度を提唱して、賛同国を募る。なお、新制度の発足時は、一国一票が望ましいのだが、改革をスムーズにするためには、そんな四角四面ではいけない。
 元常任理事国には、改正の際、120票を付与するとする。イギリス・フランスあたりは、それほど、票数を減らす行為をしないし、票数を稼ぐこともあるだろう。つまり、かなり長い期間その権力を保持できるので、条件を呑めるだろう。それでも、米露中が賛同しなければ、108条の壁は破れない。

 そこで、日本はこう言う。「十分に賛同者が揃った時点で、賛同国は一斉に現国連を脱退し、即座に、Hyper United Nations(超国際連合)を立ち上げる。国連憲章の大部分を踏襲するが、常任理事国制度は撤廃し、新たに議決権増減制度を設ける。」
 どうせ、陰謀として成功するものではないから、最初から、明言する。あらゆる妨害工作が行われるだろうが、カビの生えた戦勝国が牛耳るつまらない今の国連より、日本の提言した超国連の方がずっとマシだと考えるだろう。ある国は、弾圧から逃れ、ある国は、逆転のチャンスを夢見る。私的には勝算があるし、足りなければまた知恵を絞る。
 賛同者が増えてくると、意外と中露の方が先に折れるかも。いずれ転覆させられる船ならば、既得権にしがみ付いているより、120票をもらう方がマシだ。ついでに、これを維持するような国家に変貌してくれると、なお良いのだが。
 おそらく、最後まで頑強に粘るのはアメリカだろうが、凋落の方法はいくらでもある。
 常任理事国5カ国が、この運動に白旗を上げれば、要らぬ茶番は不要。108条項に則り、議決権増減制度への移行は採択される。
 
 これは、私が考えた簡単なシナリオだ。現実はそう甘くないかもしれない。
 しかし、大事なことは知恵を絞ることである。「あきらめたら、そこで試合終了」なのだ。

7 君が代


 日本の国歌、「君が代」は、戦前は、「キミ」を天皇と解し、その国、即ち皇国の長久安寧を願ったものとして、第二次大戦で、日本と対峙した国の人たちからは、ドイツ軍のハーケンクロイツ(鉤十字)と同じように嫌われているが、古今和歌集の「詠み人知らず」として登場する当該和歌の「キミ」は、「愛しい人」または、「親しい人」を指すと解されている。
 我事では無く、他人の世の長久安寧を願う心を、類い稀なワードチョイスで、コンパクトにして壮大に表現している。

 日本てなあ、日本てなあ、そう言う、そう言う国なんだよ。

 日本国憲法:それは、日本という国の主権者である日本人が課せられた鎖。
 幾人かの人が言うように、それは、世界を巻き込む悲惨な戦争を引き起こす原因となった敗戦国に対する意地悪で、達成不可能な要求だったのかも知れない。しかし、そこには、日本民族の底知れぬ知力への期待が込められていたと私は信じている。
 実際、日本は、前文に掲げたマニュフェストを実現すべく、国連加盟国最多の12回、国際平和を議論する安保理事に選任され、厳しい制限下でも、多くの成果を上げてきた。
 「日本人は平和ボケしている。」という人も居る。だが、一戦で活躍する外交官は、万民ゴリラの世界で、君が代(自国外)の長久安寧を願う、日本民族の代表としてこれを体現してくれている。
 軍備を拡張して、ゴリラの仲間入りをしたいと、憲法改正に賛成するというのなら、この私の戯言を聞いてからにして欲しい。

8 本日のアート


 最後に私のブログでは、一稿ごとに芸術作品を一つ紹介している。

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」

 印象派の巨匠、ルノワールの傑作。
 その美しさに目を奪われるが、被写体のイレーヌ嬢は、なんと当時8歳。
 とてもそうは見えないが、手元の辺りのあどけなさなどから、有り得るともいえる。
 絵画において、実在する被写体は憲法であり、キャンパスはその解釈の場である。
 絵画も進歩の過程で、被写体を忠実かつ精密に描くことが正解だった時代から、解釈を広げた表現が模索され、最終的には、ピカソのように、原型がまるで無視されたかのような絵画に至る。
 印象派は、その中間に位置し、被写体というコードを守りつつ、表現の限界に挑んだ集団である。
 8歳という、素朴で派生のしようの無い被写体を、ここまで美しく表現できた、ルノワールの優れた観察眼と技術に感銘を覚える。
 翻って、ろくにそのコードも理解できていないのに、「被写体が悪いからうまくいかないのだ」と主張して、「被写体を変えれば、良い絵が描ける」と短絡的に考えていては、おそらく、いつまでたっても、美しいものからは無縁であろう。

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