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てんびんは貴きにおもねず
法は貴きに阿(おもね)らず、繩は曲がれるに撓(たわ)まず(韓非子五十五篇・有度篇)
四字熟語「法不阿貴(ほうふあき)」の基となった一節である。
法は貴きおもねずはわかりやすいが、縄のところを理解するのに苦労したことを覚えている。縄というのは、古来中国では長さを測るのによく使われたらしい。いわゆる「巻き尺(メジャー)」のことで、宝物や獲物の大きさを測るときに、便利であり、測るものによって伸びたり縮んだりしないことが重要と唱えられている。
1 てんびん座
私の生まれ星座で、女性にモテる傾向があると言われているので、気に入っている。
以前、家族で、「獅子座流星群」を観に行ったとき、午前4時過ぎ24時間営業の吉野家の駐車場で、どんどん上に上がって行く獅子座を見ていて、ふと気づいた、獅子座の下にこれも星座かなと思わせる星のつながりが有る。この日のために買ってきていた安物の天球図を見て確認したところ、「乙女座」だった。
オリオン座とカシオペア座しか知らなかった私は、至極感激した。
しかし、もっと感激したのは、その後ろをついて行くように、今度は「天秤座」が現れたのだ。もしかして誕生日星座の順に並んでいるのか?と気づき始めた頃、東の空はかなり明るくなり、蠍座がいる辺りで、太陽が登ってきた。
私は初めて、黄道十二宮の意味を知った。
なるほど、太陽は、こうやって、12個で一つの輪になっている星座の道(黄道)を順に渡って行くのだ。だから、「太陽が〇〇座に入城した。」という表現を使うのだ。
実際には、太陽は動いていない。地球の公転により、太陽を挟んで見える背景が変わっているだけなんだ。
なるほど、で、今は、太陽さんは蠍座に入城中なわけだ。ただその日は、確か9月ごろで、乙女座の時期だった。まあ、昔の暦と今の暦が違うのはよく有る話。それより、黄道十二宮の意味を知ったことに感動したのと、本当に天秤座は存在し、年に一度、太陽がそこに入城してくれるのだということがとても嬉しかった。
その後少し天秤座に興味を持ち、調べてみたところ、なかなかこいつが大したアイテムであることを知る。
天秤座の本名は、Libra(リブラ)といい、裁判の神テミスの所持品で、正義の象徴であるとのこと。弁護士バッチの中央に天秤が描かれていることは有名だ。
ちなみに、乙女座は、テミスの娘アスタライアーといい、これもまた正義の女神で、現在の天空では、彼女が母から受け継いだ天秤を持っている状態らしい。
天秤は、いつの時代のどの世界においても、正義の象徴とされた。
エジプトの壁画で有名な「死者の書」においては、死者の心臓とたった一枚の羽とが、天秤にかけられ、心臓の方が重いと、天国にはいけないという、ゾッとする場面が描かれている。もちろん、これは、どれだけ清廉潔白に生きることが重要かを諭しているわけだが、天秤の裁きが、いかに裁かれる者の貴賤に左右されないかを示している。
2 正義(Justice)
一昔前、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「哲学」の授業が、「白熱教室」と題され、NHKで放映され話題を呼んだ。トロッコ問題に始まり、「最大多数の最大幸福」で知られる功利主義、いや「満足した豚となるより不満足な人間であれ」とするリバタリズムと話は展開され、アリストテレスの絶対正義に回帰していく。「人が求める正義とは何か?」を考えさせる素晴らしい哲学論の講義であった。
あまりにわかりやすく、多くの哲学を全く知らない人々を、その虜にしたものだった。
人類は、永年、揺るぎない正義を求めて来たようだ。
しかし一方で、私たちには欲というものが有り、時には、不正義に利得を得ようとする。先日読んだ本「頭に来てもアホとは戦うな(田村 耕太郎著)」においても、「この世の中は理不尽であること」を甘受して、初めて人は成功できるという。実際世の中は、理不尽が正当で、まともな事ばかり言っていると損をすることは確かである。私もその被害者の一人だ。
ただし、これは、会社などの狭いコミュニティで通じるものであって、ここに出てくる「アホ」も、社外では何の力も無い庶民に過ぎない。その著書にも書かれているように、一般社会では「法律」に触れるような理不尽は、やはり裁かれる。
では、世の中に正義というものが存在するとすれば、やはりそれは「法」だと断言できるだろうか?
「いやいや、法など何の役にも立たない。逆に悪人を有利としている。」という意見は少なくないだろう。人の正義は、千差万別。しかも、ほとんどの人間が、自分の正義こそが正しいと信じている。それで、争いや諍いが絶えない。
そこで、哲学者は、なるべく多くの者が納得する正義を、揺るぎない正義を求め続けているわけである。
しかし、これは私の考えだが、一つだけ人が求める共通の正義というものがある。
ここで出てくるのが、相手によって態度を変えることなく、正確に罪の有無・大きさを計る「てんびん」である。その美しき「水平的均衡」の姿は、おそらく万民の大半が認める「正義」だろう。だから、裁判の神は、天秤をかざす。
3 水平的均衡
水平的均衡には、代表的なものが二つ挙げられる。一つは「平等」、今一つは、「公平」である。どちらも同じように思われるかもしれないが、実は、大きく違う。両者の違いをわかりやすく表した面白いイラストが有るので紹介する。
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国語辞典的な説明をすると、「平等」とは、同じ条件・権利を与えるというもので、「公平」とは、個々の状況に応じて同じ機会が得られるように配慮することをいう。 このイラストを一見すると、かわいそうな幼児も楽しめる「公平」の方がより全体の幸福度が高いように見えるが、積み増しされた踏み台の対価は誰が負担するのだろう?一番右の人物が、幼児でなく、ただの怠け者で、積み増しされた踏み台に座って観戦していたら、問題は複雑になるだろう。
さて、天秤の水平的均衡の美しさはどちらに近いのだろう。
韓非子は、冒頭の言の如く、「法は貴きにおもねず」とし、万民が「法」の前では「平等」であるとした。中世の封建社会において、彼の思想が形を潜めていた要因は、そこにある可能性がある。しかし、実際の彼の時代では、王族が居て、貴族も軍人もいて、そして庶民がいたわけで、別に階級制度を否定はしていない。実際、法治主義は、中世の階級社会の中でも発展を続けてきた。ただ、問題だったのは、王や権力のあるものが、気まぐれに、「法」の裁きを曲げる事が有った事だ。
法治主義の根幹は、「これをすればこうなる。」という、未来予知性にある。 裁かれる側の貴賤や、裁判官の私見によって裁きが変わってはならず(法適用一貫性の原則)、その行為を行った時は罪ではなかった行為を、王様が機嫌を害して、後から罪に帰す事は許されない(法律不遡及の原則)。しかし、予め、身分・階級によって裁きの違いが定められていて、この二つの原則が守られていれば、それは公平ではないが平等であり、水平的均衡が守られていることになる。階級差別は問題とならない。
民主主義国家に生まれた私たちにはとても理解できないかもしれないが、韓非子は、それでも、裁判官や他の権力者の横槍によって、定められた通りの裁きが行われない、未来予知ができない社会よりずっとマシだと考えていたわけである。
従って、法治主義は国体を選ばない。権威主義国家であっても、王政国家でも、宗教国家でも、法治主義は成り立ち、秩序ある正義は存在しうるのである。しかし、実際には、権力者は裁きを曲げる傾向にあるため、司法が独立して、どの権力にも屈せず、予め定められた法に準じて裁きを下す「てんびん」であることが求められる。
4 国際司法
要するに本稿では、司法さえしっかりしていてくれれば、一定の秩序は保たれると言うこと訴えたいわけである。
若干、人権的問題が残ってしまうところは残念ではあるが、我々は、あまりにも多くの正義を一度に求めようとし過ぎている。人によって正義は千差万別であるように、国によっても正義の概念は違うのである。しかし、例えば、国連で各国が集まって決めたルールについて、例えそれが多数決で決められたものであったとしても、「裁き」において、完全に独立した立場から、予め定められた通りの賞罰を与えられるのなら、これに異を唱える国家は幼稚であると言う見解に異論は出ないだろう。
現状、実際、国連では、個々の国家の身勝手は許されないように、一定のルールが定められている上に、毎年、見栄えだけは立派な新しい規則が付け加えられている。しかし、どれも完全に機能しているとは言えない。
その理由は、まず司法がしっかりしていないことによる。ルール違反を見ても、報告を受けても、遠くから「おーいそんなことしてはいけませんよう~」と叫んでいるだけの、カカシでは、この世界は変えられない。
それから、こんなことを言うと反感を受けるかもしれないが、国連はいろんな社会の幸福を一度に実現しようとし過ぎである。環境問題や文化遺産を守ることも大事なのは分かるが、サクッと人が殺されまくっている方が、よっぽど喫緊の課題だと思う。飢餓や貧困問題の多くも、結局地域紛争に起因するものが多い。
国連の資力・人力にだって限りがあるのだ。兵力分散、逐次投入は愚策の長であろう。
もっとシンプルで、当たり前のルールを一つ選択し、国連の総力を上げて、完全に守らせることの方が重要だ。それによって、一つのノウハウが得られる。すなわち、あるルールを全加盟国に守らせるためには、どのような手法が効果的かというノウハウである。
私の戦略を語ろう。
まず領土問題を、ある年度(今からなら2030年度くらい)で、一旦全て、実効支配をもって領土とし、しばらく(約50年)これについて異を唱えることを禁ずる。そして、領地外を他国と定義し、「他国に迷惑をかけてはいけません。」というルールを定める。
そして、国連の財力・人力を結集して、この「他国に迷惑をかけない。」というたった一つのルールを守らせるために、何が必要か?どのような手法が効果的か?を考えるわけだ。
私の案として、以前にも挙げているが、ルールをしっかり守れている国には、大きな議決権を付与し、ルールを守れない国は、議決権を減らすというのが効果的だと考えている。
また、これも前に提言しているが、常任理事国には、今までの貢献(邪魔ばっかりしやがって、とも思うが)を鑑みて、相当量の議決権を付与した上で、拒否権を放棄していただく。なお付与された議決権は、その後のその国の行動によって、増減する。これで技アリだ。
あとは、司法が正しい判断ができるよう、しっかり調査・確認ができる体制を造る。
現在の安全保障理事国を選出するように、判事国を専任する。
彼らには、とにかく第三者の目になって、貴きにおもねず曲がっても弛まない、公明正大な裁決を下してもらう。そうすれば、疑いをかけられた方も、調査に協力するようになるだろう。テミスのかざす美しい天秤の水平的均衡は、世界共通の正義だからだ。
国連内において、一つでも全加盟国が尊重しこれを守るルールが確立された時、初めて世界に一つの正義が定立する。
私の目指す、天下布法にとっては、大きな大きな一歩となる。
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普通に見れば、宝石の重さを測っている光景に見えるが、女性の背後に飾られた絵画は、ミケランジェロ作「最後の審判」であり、まさに自分の生涯の罪が天秤で測られ、天国行きか地獄行きかが決められようとしていることを示唆している。
フェルメールの作品には、「取りもち女」のように、人間の欲深さを見事に表現した作品もあるのに、宝石の重さを測る女性の表情には、欲はおろか、その軽さに憂う様子もない。まるで、他人のものを測るように淡々とした様子が伺える。
実は、最後の審判に描かれている、人の天国行きと地獄行きを裁くキリストも同じような表情をしている。
「無慈悲?」。いやそうではないのだ。これが、天秤の美しい姿を表情とした場合の結果なのだ。