王冠を戴くに相応しい者
1 満足した豚であるより、不満足な人間であれ
Chapter2の冒頭にあたり、まずは次の表を見てもらおう。
世界経済は常に成長を続けている。
私が大学在学当時、中国のことを「遅れてきた巨人」インドのことを「遅れてくる巨人」と言っていたが、現在ではインドが「遅れてきた巨人」で、ブラジルが「遅れてくる巨人」と言われている。東南アジアも、互いに協力しながら、文化的で裕福な国家への道のりを歩んでいる。しかし、これら新興国と言われる国々は、まだまだ、国内に多くの不健康で生活水準の低い国民を抱えており、つまりそれが伸び代として、前述のような表現がされる訳である。
上図に挙げた、G7の国々は、国民の大半が健康と文化的水準を保ち、成熟し、新興国のような伸び代はない、いわゆる老齢化国家である。にもかかわらず、見ての通り、労働者の賃金は、右肩上がりであるが、そんな中、ここ30年、地を這うような折れ線グラフを描いている国がある。
我が国だ。
なんでこのような無様なことになってしまったのか?
その原因については様々な可能性が考えられるが、その多くは、Chapter1で取り上げたような、Unusualな制度や政策によるところが大きいと私は考えている。
政治家や行政機関が好き勝手に、我々労働者階級のしょぼい稼ぎから巧みに搾取をする。搾取される事を知っているから、資本家たちは、労働者に賃金を払わない。資本は企業内部に留保され、場合によっては、マネーゲーム化した市場に投資されているかもしれない。
よく、日本のGDPの伸び率は、年間1〜2%だが、なんとか黒字を続けているというが、本当にそうであろうか?
GDP(国内総生産)=民間消費+民間投資+政府支出+貿易収支
このうち、民間消費の占める割合は、2022年で51%だ。つまり、民間消費が大きく関わっている。そして、民間消費を左右するのは、私たち労働者階級の持ち金だ。
日本は、成長率200カ国中168位という低成長国家でありながら、失業率は、コロナ禍の中でも2.8%、今は2.4%、これは、先ほどのG7の中で最も優秀な成績である。しかも逆に30年間、トップを守り続けている。
おかしいでしょう?わかる人にはわかりますね。日本は十分、おそらく年5%くらいの成長を続けているのに、その儲けを労働者に還元していないか、還元されても、それを政府が搾り取っているため、消費が押さえ込まれ、結果として、GDPは1%しか伸びないのである。
この状況をもっとわかりやすく表現してくれているドラマの一場面があるので紹介する。
2005年日本テレビ系ドラマ「女王の教室」にて、天海祐希演じる冷酷無比な鬼教師が、小学生に、なぜ勉強が必要か?何を学ぶべきか?を説く重要な場面である。
「いい加減、目覚めなさい。
日本という国は、そういう特権階級の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。
知ってる?特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか。今のまま
ずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中の仕組みや不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもボーッと見て何も考えず、
会社に入れば、上司の言うことをおとなしく聞いて、
戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくればいいの。」
強烈だが、どこか痛快な気分を感じるものの言いようだ。冒頭の「いい加減目覚めなさい!」は、このドラマのテーマを示唆するメタファーとして、多用されるワードだった。
もう2005年には気づいていた人がたくさんいたはずなのに、いまだに目覚めていない人がたくさんいるようだ。
上記の発言を端的に言い換えると、私たちは特権階級の「家畜」なのである。
食って寝て生きていくには問題ない程度の環境は保持されているが、本来自身が持っているポテンシャルから換算すれば受け取れるはずの対価は、受け取ってはいないのだ。
そんなことが30年も続いたら社会はどうなるか?
Z世代の将来像は酷いもんだ。将来が右肩上がりである希望を持てないから、結婚して家族を持つことは愚か、200万円も行かない車を買うことすら諦めている。出世にも興味が湧かない。転職を繰り返し、天職に巡り会えたものは良いが、多くは、いわゆるニートへの道に進み始める。いかに楽をして儲けるか。ネット動画でバズろうとして逆に利用される人、闇バイトに手を染める人、外に出たかと思ったら、同じような境遇を持つ者同士が集まって、さらにヤバい情報を交換している。
しかし、今までは、こう言う問題は、10代20代前半に限られていた。面倒なのは、ネット社会が成熟するにつれ、30過ぎてもこんなことを続けてきた人々だ。
無駄に歳を重ねて、経験があるので、社会の歪みにも気づいているし、組織を作ったり、調達したりする方法も知っている。組織を作れる者は、詐欺集団を形成し、組織も作れず、単独で、社会不満を募らせた者は、武器を入手し、街中で無差別殺人を起こす。
これらの犯罪は、もはや一部の反社会的思想を持った人々のテロなのだ。
いい加減、目覚めなさい。でも、目を覚ますべきなのは、搾取している特権階級の人々か?それとも、まやかしの幸福で満足している豚さんたちか?
※ J.S.ミルの唱えた、「満足した豚」とは、少数派の犠牲の上で幸福を享受する功利主義者のことを揶揄したもので、本論とは無関係である。
2 君は壤地なり、臣は草木なり。
必ず壤地美にして、然る後に草木碩大なり。(韓非子 難二篇)
碵大(せきだい)とは、立派で逞しいと言うこと。壤地(植えられた土地)が美しければ、そこに生える草木も立派で逞しいものになると言う意味。
臣とは、文字通り家臣のことで、民主主義国家においては、行政機関だけでなく、国会議員を始めとする政治家も含まれる。これが、前述の女王の教室で「特権階級」と名指しされた人々と考えてもらうとわかりやすい。
君とは、君主のことであるが、民主主義国家においては、私達国民一人一人をいう。
すなわち、国が安定していて、皆が幸福を得られる状況を維持するには、政治家や行政機関の資質よりも、君主である我々の資質こそ重要であるということになる。
この国のUnusualを正す方法は、特権階級の人たち、すなわち、草木の方々が、搾取や不正をやめてくれれば簡単なことなのであるが、それは二つの理由によって不可能である。
一つ目は、草木は相互が争っていて、自分に都合の悪い法律や規制が定められる事を阻止し合っている。
二つ目は、草木は相互に助け合って利益を享受しているので、一人だけ良い子になって抜け駆けすることはできない。
稀に国の将来を憂う列士的政治家が現れるが、官僚のリークや、他派の圧力に屈し、道半ばで去って行く。彼らが草木の一部である以上、結局大した改革はできない。
従って、彼らにしのごの言わせない絶対的上位の権力者による改革が必要となる。
すなわち、必ず、壤地美にして、草木碵大ならん。というわけだ。
さて、その壤地を担うのが、この国の本来の主権者たる私たちであり、いい加減目覚めなければならないのは、私たちなのである。
ところが、日本人というのは、民主主義を履き違えている。
民主主義とは、国民一人ひとりが主権者となる代わりに、国の運営に責任を持つものであるが、日本人の民主主義は、「国民は生まれながらにして自由と平等が保障されていて、それを維持するのは、どっかの偉い人やよく勉強した人の責任である。」というものだ。
さて、このひ弱なほど従順で、空気に流されやすく、人任せが大好きな日本国民にこの国が救えるだろうか?
これが、Chapter2の主なテーマとなる。
3 王冠を戴くに相応しい者
初稿の本稿においては、まず、日本国民が、我が国において、王冠を戴くに相応しい者としての素養を備えているかについて考える。
民主主義における主権者の要件は、概ね、「積極的に政治に参加し、一定の教養と良識を持ち、正しい情報を与えられたら、公正な判断が出来る者」と言ったものだ。
とってもハードルが高そうだが、意外に、「積極的に参加する。」以外は結構合格ラインにあるんじゃないか?
①教養:教育水準は高い。学歴は充実一方。先代を遡れば、大半の家庭は、学歴こそ劣るとも、それを凌駕する教養や道徳観を持ち、なぜかやけに物知りだ。このように、先代が教養豊富である状況は、日本ならではの特徴の一つだ。なんと言っても、一度は、世界第2位に君臨した国だからね。
②良識:正邪の判断において、自己の思想より多数派の決めたルールを優先する傾向が強い。アメリカの陪審員制度と、日本の裁判員制度での討議内容を検証することができればおそらくそれは顕著に表れているだろう。
③公正:正確な情報を与えれば、正確かつ忠実にこれを活用できること。 この点は、A I並みとも言えるだろう。
後は、積極的に政治に参加しない点だ。
これが30年間も家畜化されつつも、無駄に国を発展させ続けた原動力でもある。
そう、「難しいことを考えさせられるくらいなら、私はいくらでも残業します。」「わざわざ、難しいことを考えて、自分たちが損しているなんて、気づきたくもない。」「家族みんなが健康で、幸福ならば、給料が上がらなくても結構です。」
そして、私も含め、最もよく言われるのが、「お前の考えていることなんて、政府のお偉さん方はとっくに考えている。その結果として現状があるんだ。もしそうでないとしても、お前が何を言ったところで、何も変わりはしない。」
そう、権力や支持者が居ない人間には、発言権が無いと信じ込んでいる。
まず、この「個人は無力」という妄信を捨てなければならない。
世界を変えたムーブメントの多くは、路地裏の愚痴から始まった。
アドルフ・ヒットラーは、とあるビアガーデンで、思わず吐いてしまった大言壮語に、店内が拍手喝采したことがきっかけで、世界征服まで、あと10歩くらいのところまで行った。
「6次の隔たり」という理論を知っているだろうか?
全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっていて、友達の友達…を介して世界中の人々と間接的な知り合いになることができるそうだ。
私は一介の市民だが、世の中にはある地域なり国家なりにある程度影響力を持つ人はたくさん存在する。私の奇抜な発想が、彼等に届き、何かの利益と繋がって活用される日が来る可能性は十分あるのである。
諦めと開き直りに満ちた壤地では、立派な草木は育たない。
家畜化の長期化の弊害は前述したが、もっと怖いのは、特権階級側が、起死回生を求めて、戦争を始めることだ(まどろっこしい国民主権を無力化する最も簡単な手法だから)。家畜は真っ先に無駄な戦場に送られるだろう。
コロナ禍の反動が経済を振り回す2023年は、おそらく千載一遇のチャンスの年となろう。
まずは賃上げを訴えよう。若者に希望を。路地裏でもSNSでもなんでも良いから発信していこう。
大丈夫、日本人は、G7の中でも最も洗練された民主主義を実現する素養を持っている。ただ、一人一人が、王冠を戴くに相応しい者を目指す第一歩を踏み出すことさえできれば。
ルイ・ダヴィットは、有名な「ナポレオンのアルプス越え」を描いた、ナポレオンお気に入りの画家である。ナポレオンが皇帝となり、その王冠を戴く晴れの舞台を、是非ダヴィットの緻密でどこか派手さを感じるタッチで描いて欲しかったのだろう。
しかし、当時、王位は、神から授かるもので、王冠を授けるのも、神官・祭司の役目であったが、ナポレオンがこの儀礼を無視して、自ら王冠を被ってしまった。
これは、王権神授説の当時においては、神を冒涜する行為である。
ダヴィットは困った。史実を描くべきか、虚偽の情景を描くべきか?
そこで、王となったナポレオンが王妃にその冠を授けるシーンを描き、この難題を克服したわけだ。
「主権」は、それを頂くにふさわしい者に授けられるべきである。授けるものが神でなくなった現代においても、それは同じであり、王冠は自分でかぶるものではない。
主権者は、その自覚を持つことも重要であるが、その王冠を戴くに相応しい教養と責任感を持ち、他者から王冠を授かることを目指さなければならない。